寺と神社とまちと人。

生駒山地の南端近く。伝説の残る道の途中で大楠に遭う石神社。

ぶどうを狩って、古道を歩いて。

 

大阪府の東端で奈良県との境でもある生駒山地。北は京都府八幡市、南波大阪府柏原市と奈良県三郷町まである。
その南端近く、柏原市を訪れた。ぶどう狩りである。

この地では記録によると安土桃山時代にはぶどうが植えられており、江戸時代には日陰をつくるための樹木として重宝されていたようで、明治17年に同地域の中野喜平という人物が甲州ぶどうの栽培に施工したことをきっかけとして、全国有数のぶどうの産地となった。
昭和初期には大阪府のぶどう生産量は全国一となり、主産地の柏原は全国一のぶどうの産地と言われていた。西日本最古と言われるカタシモワイナリーをはじめ、現地および周辺地域にはワイナリーも複数。

とはいえ、ぶどう狩りにはそれほど時間を費やすことはないため、周辺を歩く。

ぶどうの主産地である柏原市太平寺地区は、趣のある町並みや鍵路地があり、歩いて気分の良いところだ。もっとも、石畳っぽい道は、「大阪ミュージアム構想」の一環で再整備されたものではあるが。

延暦16年(797)に完成した続日本紀には、天平12年(740)に聖武天皇が難波宮への行幸途中に、この地区に当時あった知識寺に参拝し、寺の大仏を見たことから東大寺の大仏建立を思い立った、との伝承も記載されている。
相当な伽藍を誇っていた知識寺は室町時代になくなったが、寺の東塔の礎石が石神社境内にある。

 

古道は、謂れや伝承伝説が多いものだ。

 

柏原市には龍田古道、東高野街道という歴史の道が走っているが、もうひとつ、確定ではないが、在原業平が通ったとされる「業平道」がある。
この道は在原業平の自宅があった現在の天理市から大阪の高安へと通った道のことで、斑鳩町辺りまでは確定しているものの、どうやら斑鳩から高安までは2説あるようだ。

伊勢物語には、概ねこのように書いてある。

業平が高安地域の氏神である玉祖(たまおや)神社を三回する途中、神立(こうだち)地区の茶屋・福屋で梅野という娘を見初め、以後、彼女に逢うために業平はたびたび通うことになる。梅野を呼び出す際は近くで笛を吹くのが合図だったとか。
あるとき業平が到着し、笛を吹くものの梅野が出てこない。そこで東の窓から中を覗くと、梅野が自分でご飯を盛って食べているところだった。
業平のいた当時の貴族社会では、飯を盛るといった給仕は侍女の仕事。ゆえに業平の恋は一瞬で冷めてしまい、その場を立ち去ってしまった。娘は悲しみのあまり、近くの池に身を投げてしまった・・・。

この逢瀬のために業平が歩いたとされている道のひとつが、太平寺地区を南北に走る道。これもまた、石神社の近くを通る。神社横からカタシモワイナリー前を通り、山裾へ続き、生駒山地南西端の高尾山にある巨石がもともと御神体だった式内社の鐸比古鐸比売(ぬでひこぬでひめ)神社、明治時代に鐸比古鐸比売神社に合祀されたものの昭和戦後に再び独立した式内社の若倭彦(わかやまとひこ)神社を通って高安に至る。

余談だが業平と梅野の一件以後、神立地区では「東の窓を開けると娘の縁が遠くなる」と言われていたそうな。

 

 

地域の方々の思いが生んだか、石神社。

 

さて、だいぶ遠回りしたが、ぶどう狩りの後に業平道を歩いて向かったのが、石神社。石と書いて「いわ」と読む。御祭神は石姫命、石長姫命。前者は欽明天皇の皇后で敏達天皇の生みの親、後者は木花開耶姫の姉。特に石長姫命は永遠の命の象徴の神とも言われ、当社は特に女性参拝者が多い。
とはいえ、境内の由緒書きによると「石姫命、石長姫命ともに当地に祀る由縁はなく」だそうで。磐座信仰から来たものとも、神社の背後にある獄山が由来とも言われ、要するに由緒は不明。しかし塔地域の産土神であり、式内社である。

拝殿は急な石段を登った先にひっそりとあり、石段手前には、かつて手洗い石として使われていた、知識寺東塔礎石がある。

刮目したのは、業平道を挟んで西側にある境内地の大楠。幹回りは6.2m、樹齢は800年以上。枝を四方に拡げ、立派だ。思わず手で触れる。
手前の業平道を歩いているときから、樹高26mの先端がもっこりと見えており、到着して見上げたその堂々たる佇まいに、安心感を覚えたのは私だけではないだろう。

歩いていると、いろいろなものやこととの出逢いがあり、それが、小さくても大きくても旅となるのだと、帰路感慨に浸った一日を得た。

 

 

石神社

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