寺と神社とまちと人。

すっくと立つ大弘法。地域の人々の願いを背負う。

まちのシンボルに弘法大師が選ばれた、昭和初期。

 

愛知県春日井市。現在のJR春日井駅は昭和2年に誕生した国鉄鳥居松駅を前身としている。それまでの中央本線は東の高蔵寺駅から西の勝川駅間に結構な距離があるにもかかわらず、駅が存在していなかった。地域住民の熱心な要望などによって当時の鳥居松村、篠木村との境に位置する現在の地に、昭和2年(1927)12月26日、鳥居松駅が誕生する。さほど大きな駅ではなかったが、両村および近隣から名古屋方面へ向かう人には大変助かったようだ。
当時は辺り一面田園風景、そこにポツリ、ポツリと集落があった程度で、南側に小牧・長久手の戦の後に豊臣秀吉が滞在した旧上条城主・林家の屋敷があった程度で、商店街もなかった。
そんなのどかな風景とは裏腹に、地域の人々の間で、せっかく民意による駅ができたのだから何かシンボルを建てよう、という機運が盛り上がっていく。その声を受け、鳥居松駅請願の代表者であった林長三郎氏が発起人となり、コンクリート製の弘法大師立像と弘法堂の建設を計画。作業には地元住民も全面的に協力し、ついに昭和7年(1932)、見事竣工した。当時を回顧した人の話によると、4月には盛大な落慶法要が営まれ、稚児行列や餅投げが行われたという。

発起人の林氏は、鳥居松村の資産家としか紹介されていないが、住まいは上条だ。上条の林家と聞くと、旧上条城主の林家の流れか、と想像してしまうが、そこはわからない。

春日井駅で下車し、北口ロータリーの右前に、ぬーんと弘法大師像は、今も立つ。

 

時代はコンクリート像×観光振興だった。

 

さて、なぜ弘法大師を選んだのか。そもそもそこが気になる。
弘法大師にゆかりの地ではない。春日井市内の松河戸町には三蹟のひとり・小野道風の伝承はあるが、だからといって三筆の弘法大師空海と対比するには相当離れている。調べてみるとどうやら、昭和初期の愛知県内では、巨大なコンクリート造がちょっとしたトレンドだったことが伺えた。
今はなき瀬戸電気鉄道は昭和4年に瀬戸電小幡駅(現名鉄瀬戸線小幡駅)から守山区の龍泉寺まで鉄道敷設計画を立てた。龍泉寺を中心に観光事業を盛り上げようと考え、その一環として尾張三大弘法を計画。当時の龍泉寺一体には、大正時代初めに完成した御花八十八か所があり、そこに第一番として「御花弘法大師」を建立(開眼は昭和7年)、次いで第二番は尾張旭市・良福寺に「開運弘法大師(昭和6年完成)」、尾張旭市・退養寺「厄除弘法大師像(昭和6年完成)」を第三番とした。鉄道は実現しなかったが、尾張三大弘法は完成し、これにより参拝客の増加を狙ったようだ。いずれの弘法大師像もコンクリート造り。第二番と三番の制作は、当時コンクリート像作家として知れていた花井探嶺や浅野祥雲に依頼する気合いの入れようだった。

前置きがだいぶ長くなったが、この尾張三大弘法だけでなく、当時の愛知県ではどうやらコンクリートによる弘法大師や仏の像を造ることが流行っていたようで、春日井市だけでも、昭和3年(1928)〜昭和5年(1930)の間に6体ものコンクリート造が誕生している。とりわけ昭和4年に隣駅の勝川に誕生した勝川大弘法大師像は開眼入仏式も盛大で、高僧を招き、臨時列車も仕立てられたほど。要するに巨大なコンクリート造の弘法大師や仏の像を建立し、地域を盛り上げるという策は、当時の王道だったのではないか。
だからこそ地域住民は折角駅ができたのだから地域が盛り上がってほしい、多くの人に来てもらえるように大弘法大師像を、と願ったのだろう、なんて勝手に想像してみる。
春日井駅前の大弘法大師像発起人となった林長三郎氏が昭和10年(1935)に執筆した「旅乃友」には、尾州三大弘法第三番と記されているし、正解はそう遠くはないのではないか。林氏は発起人となるにあたり、春日井周辺を盛り上げる目的で、尾張三大弘法を参考に尾州三大弘法計画を考えた。ような気がする。駅の誘致に続き、地域のために、尽くしたかったのだ。

 

人々の思いは、信心として続く。

 

春日井駅前弘法大師像の前に立つ。高さ約10メートルの堂々としたお姿だ。笠を被っているので、いわゆる修行大師だろうか。眺めていると私の横を高齢の女性が通り、弘法大師増と両脇の不動明王像、阿弥陀如来像に参り、右側の細道から裏手に向かった。
昭和7年の大弘法大師像および弘法堂建立には続きがある。翌年には北側に20坪ほどのお堂が建てられた。中には須弥壇が設けられ、弘法大師が祀られていたという。ここは尾州三大弘法として信仰を集めただけでなく、地域の人々は集会所のように利用し、地域の会合や祭りの際には多くの人が集った。完成後には尼僧が暮らし、弘法堂を守っていたとも言われる。
昭和27年(1952)には京都にある真言宗大寺院に属することとなり、正栄寺という寺号もついた。命名式には稚児行列が練り歩いたという。しかし昭和35年(1960)に春日井市から発表された駅前区画整理事業計画によってお堂は取り壊させることとなり、跡地には平屋の家が建てられたが、それはもうない。

大弘法大師像の裏に回ると、細い板に真言宗正栄寺と書かれた弘法大師堂が口を開けていた。中には小さな弘法大師坐像がたくさん並んでいる。これらは地域の人々からの寄進仏だ。
大弘法大師像の笠は、風雨にさらされて何度か破損している。その都度信者や地域の人からの寄付で新しい笠に取り替えられている。インターネット上には数多くの大弘法大師像の写真が見られるが、中には笠を被っていないものもあり、近年にも新たな笠が取り付けられているようだ。

駅前はひっそりとしていて、林長三郎をはじめ建立時に人々が願ったようには反映していないかもしれない。それでも、この弘法大師を目指して歩いてくる人はいる。一心に祈り続けるおばあちゃんもいる。サブカル的な名所ではなく、100年近く人々の思いを受け止め続けて居る場所として、後世に受け継がれることを願うのだった。

 

真言宗正栄寺 弘法大師像
愛知県春日井市中央通1丁目

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