寺と神社とまちと人。

戦国期と明治維新後。ふたつの境界線上にかつてあった城の跡。元城町東照宮

いろいろ初めてのものがある、浜松。

 

ふるくから天竜川を利用した物資の運搬や人の交流で賑わってきた浜松。
その恩恵を受け、ものづくりの地域として発展してきたこのまちは、現トヨタグループの創始者である豊田佐吉が明治29年(1896)に日本で最初の動力織機を発明した地であり、昭和12年(1937)には鈴木式織機(現在のスズキ)がオートバイのエンジン試作に成功し、本田宗一郎がピストンリングづくりに成功。スズキもホンダもその後20年も経たないうちに自動車、トラックを開発している。日本楽器製造(現在のヤマハ発動機)がオートバイYA-1を開発したのは昭和30年(1955)。ちなみに日本楽器製造は明治35年(1902)に、初の国産電子オルガンを開発している。
明治33年(1900)には服部倉次郎が浜名湖の畔で鰻の養殖をはじめているし、面白いところでは、大正11年(1922)に松島保平という人物が金平糖製造器を開発している。

なんとまぁ、いろいろな「はじめて」が生まれた地域である。

そういえば徳川家康が将軍への歩みを始めるその一歩も、岡崎城から移った浜松だった。

 

浜松の前に引間(曳馬)あり。

 

徳川家康は永禄11年(1568)に、武田信玄と対峙するために浜松に移り、最初に居城としたのが引間城だったそう。
曳馬ともされているが、その名称が負け戦っぽくて縁起が悪いだとかなんだとかで、家康は新たな城を築き始めた。それが浜松城。
現地の案内板を見ると、隅っこに古城と記された場所があり、そこが引間城の跡らしい。
引間城と言えば、お田鶴の方でも知られる。

さらに、のちの豊臣秀吉は、始めて仕えたと言われる松下之綱(加兵衞)に連れられ、引間城を訪れている。
ゆえに引間城のあった地には、徳川家康&豊臣秀吉の像があり、出世スポットとも評されている。
この引間城のあった地が、元城町東照宮だ。
東照宮、つまり徳川家康を祀った場所だが、同社ができたのは明治以後のこと。
創建は幕末期の元幕臣・井上八郎(延陵)。大政奉還後、徳川慶喜について駿府へ下った八郎は、慶喜により浜松城代となる。幕末から明治初期にかけての八郎の活躍は、それだけで本が一冊書けてしまうほどだが、それはまた別の話として、とにかく八郎は、浜松へ移り住んだ。

名を延陵と改めたのち、明治19年(1886)に井上は、浜松は徳川家康が名を成した所であるにもかかわらず、家康を祀る神社がないことが惜しいと思い、家康を祀る神社の建立を考えた。
その話を聞いた石黒務が、なんと引間城のあった場所を買取り、用地として井上に寄付したのである。

石黒務は滋賀県の氏族出身で、浜松へは浜松県の権参事(江戸時代でいうところの家老のような立場)としてやってきた。井上と同じく幕末〜明治維新を生き抜けてきた石黒は、浜松に井上あり、と知っていたことだろう。
用地の寄付を受けた井上は私財を投入して建立に動き始めるが資金はまだ足りない。広く建立資金を募ることにしたところ、そこに東京から、勝海舟が500円を寄付、幕末の剣術家であり明治維新後に官僚となっていた山岡鉄舟からは、揮毫した大幟が贈られた。ちなみに山岡鉄舟に剣術を教えたのは、飛騨高山時代の井上だった。
建立資金の目処が立ち、日光東照宮をもした社殿の建築は始まった。かくして明治19年(1886)、小さな東照宮は無事落成式を迎えた。

 

地域の手で、大切に守られる社。

 

建立後の東照宮は、すぐ近くにあった遠江国報国社へ管理が委託される。それからしばらくは報国社が管理を続けるが、昭和初期に井上延陵の孫から所有権を譲り受け、報国社からは管理を引き取る形で、昭和11年(1936)、社のある元城町に権利の移転が完了。ここから、元城町東照宮となった。
太平洋戦争の戦火により、井上の発願で建立した本殿は焼失。現在は鉄筋コンクリートの小さな社殿となり、いまも地域の人々の手で管理が続けられている。

浜松駅から歩いて訪れると、住宅地の中にポツンという言葉が似合う佇まいで、社殿があった。隣には家康公ご住居跡の案内板と引間城御城印所がある飲食店もある。
ここから大通りを越えれば、浜松城だ。
壮麗な浜松城ももちろんいいが、その目鼻の先にあるこの小さな東照宮であり引間城跡である場所も、物語がたくさんあって、興味は尽きないのである。

先述した家康&秀吉の像の間には、人が立って記念撮影ができる。
ポーズに悩むところではあるけれど、その遊び心もありか、と。

 

元城町東照宮

関連記事