寺と神社とまちと人。

顔で怒って、心で泣いて。

篠栗四国八十八ヶ所霊場の道を歩く、最後。

振り返ってみると、篠栗町の札所では、さまざまな顔付き、出で立ちの不動明王に会った。
不動明王は、大日如来が成り代わった姿とされる。ゆえに真言密教寺院には、不動明王像が多い。怒りを表す目、火焔を背負い宝剣を振りかざし、左手には縄を持つ姿が一般的だ。その姿から、常に怒っている怖い明王のイメージが強いが、ある寺院で、「怖くないんですよ」と教えていただいた。
怒った表情は、何が何でも人々を煩悩から救済するのだという決意の表れであり、宝剣は悪魔を退散させるために振りかざしている。左手の縄は人を縛ってでも煩悩の中から救い上げるためのもの。
心の中は、煩悩を断ちきれない人間の深い悲しみでいっぱい。決して、煩悩から離れられないでいる私たちを怒っているのでは、ない。

その言葉のあと、札所を回るたびに、不動明王を探すようになった。
札所は八十八ヶ所。不動明王がご本尊として一体の所もあれば、寺院がつくったもの、参拝者から寄贈されたものなど、境内に複数体いらっしゃる場合もある。霊場全体で100体は超える不動明王がいらっしゃる。100余通りの慈悲にふれるのだ。

 

気がつけば、マイ不動明王探し。

さて、札所で不動明王を探し、それ以前に参拝した寺院にも立ち戻って探して一つひとつお顔を拝んでいくうちに、自分好みを探していることに気づいた。
今まさに煩悩という悪魔を宝剣で退散させようとしている姿、真一文字に結んだ口で、我々人間が自ら煩悩を脱するのを待っているように見受けられる顔、遠くから我々を試すように見守っている(ような)立ち姿、左足が少し前に出て、こちらへ向かってきそうな迫力。
時には、悪魔の壮絶な闘いのあとだろうか、少々お疲れ気味のお姿も見られた。輪郭は丸や四角、それぞれ。宝剣を振りかざすでなく、男雛の笏のように立てておられる場合もある。その微妙な違いは、訪ね歩くときの大いなる楽しみだった。

ちなみに不動明王の姿は奴僕(ぬぼく)と言うそうな。奴僕とは献身的に他者に奉仕する者のこと。人間を煩悩から救い出し悟りへと導くため身を献げ、護っているのだ、と。
若杉山方面の札所へ、緩やかな登りの道を歩き、辿り着いた先には不動明王。怒りに満ちたはずの顔が、辿り着いた自分を見守る親の顔に見えた。不動明王を探す道行きは、もしかすると心の奥底にまだ眠っている、自身の親への畏敬を再確認する時間でもあるのか。

篠栗の霊場には、祈りと、記憶と、自身と、他者と。多くのものとの対面があった。

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