日常のとなり。

賑わいはかき氷然と溶けた。が、歴史を思い歩く鹿児島・天文館。

薩摩藩の近代化の影に、重豪あり。

 

大河ドラマでは2025年6月現在、島津 重豪(しげひで)が注目されている。
鹿児島・島津氏の25代当主であり、薩摩藩第8代藩主の重豪は、自身でも「蘭癖大名(らんぺきだいみょう)」と称するほど、蘭学に傾倒し、オランダをはじめ西洋式の生活や習慣を取り入れた人物である。
鎖国下の日本にあって唯一外国との接点であった長崎へ出向き、オランダ商館を訪ね、オランダの船にも乗船したという。年老いてからになるが、シーボルトとも面会した。しかもオランダ語で会話したとか。

重豪は11歳で家督を継いだのち、しばらくは祖父・外祖父が藩政を担っていたが、彼らの死後、自身で親政を行うようになる。
国の端にあるがゆえに武士の教育が十分でないと考えた重豪は、江戸にあった幕府設立の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」をモデルに「造士館・演舞館」を創設。そこで武芸や教育の普及に努める一方、欄癖だったからか、安政2年(1773)に、暦学や天文学の研究を目的とした「明時館」を開館。館内には4メートル四方の観測台も設けられていた。
さらに翌安政3年(1774)には、造士館南隣に医学研究のための「医学院」も創設。
これら一連の施設があったのが、天文館と呼ばれるエリアの奥だ。
なお、天文館は、「明時館」が別名で天文館と呼ばれていたことに由来する。

 

 

30年ぶりの天文館、静かになった。

 

そんなこんなとは偶然に重なったのだが、先日、天文館を訪れた。
かれこれ30年ぶりの訪問である。

30年前の賑やかさが頭の片隅に朧気ながらあり、そのままの気分で向かったのだが、降灰や日射し対策のためにアーケードが続く天文館は、なんだか寂しかった。平日だったということもあるだろう。人が歩いていないわけではないが、アジア系の旅行者と、それよりも少ない地元の人であった。
もっとも、そのおかげでアーケードの路面に星座早見板があることに気づけたのだけれど。
かつての訪問時は、沿道の店々に活気があり、それらを見てあることに一生懸命で、とてもじゃないが足元にまで気が及んでいなかった。

天文館といえば南九州随一の繁華街で、熊本で生まれ育った身でも、当時からその名は聞き及んでいた。
大正後期から昭和初期に映画館や劇場が建ち、そこに集まる人のための飲食店が並び、昼夜賑わっていたと聞く。露地に入れば個性的な喫茶や物販店があり、若者はそれらを目当てに天文館へ向かっていた。
ところが近年、九州新幹線開通による鹿児島中央駅周辺も含めた周辺地域の開発が進み、天文館エリアは空洞化が言われるようになっているようす。
全国どこへ向かっても同じような話を聞く。新しいエリアを開発することは、良し悪しの面がとてもあるなぁ、と思う次第。

 

 

ミルクの味は記憶のままだった、白熊。

 

複数ある天文館のアーケード、総距離約3.5㎞をプラプラと進み、北へ向かう新幹線の時間もあるからと、天文館通電停に向かって歩く。
途中、立ち寄ったのは「天文館むじゃき 本店」。今や全国区になっている気がするかき氷「白熊」が生まれた店だ。
かき氷専門店ではなく、1階はカフェ、2階がレストラン。幸運なことに並ぶ人がなく、すぐに2階へ上がることができた。軽い洋食的メニューを頼み、しばし待つ。
食事メニューにはベビー白熊というミニサイズのかき氷がついているのは、やっぱり嬉しい。ノーマルサイズの白熊は、ちと食べ余ってしまうから。

今年の6月は結構な暑さで、今回の訪問時も、少し歩けば汗ばむようだった。そんな中にあって、食後感もさっぱりとしたここのミルク蜜(この表現でいいのかは置いておいて)、昭和24年からあるのだと思うと、時代に左右されない味は強いものだ、なんて感心してしまう。もちろん、氷のまま食べ終わるのではなく、すこしだけ残して溶けるまで待ち、すすって、完食。30年前もそうしたっけ。

 

天文館

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