日常のとなり。

旗本、怪談、文人。歩いたあとに調べたくなる番町文人通り。

四ツ谷駅下車、あまりに静かな一帯に入った。

 

皇居の吹上大宮御所西側にある半蔵門は、徳川家康の江戸城入城時、護りが弱いとされて服部半蔵正成に警護を任せたことから名がついたと言われる(通説)。ここを起点に甲州街道が始まるが、西に向かって延びる街道は半蔵門を出た辺りから町人地があり(現在の麹町)、麹町の北側に、番町がある。厳密には番町という地名ではなく、江戸城内濠と外濠の間に、一番町から六番町まで六つの番町が集まったエリアだ。
千鳥ヶ淵公園と四ツ谷、市ヶ谷各駅とに挟まれた一帯である。

番町の「番」は、大番組の番。江戸幕府は城の警備を固め、また有事の際を考え、この半蔵門西側のエリアに江戸城や江戸市中の警備などを担う旗本である大番を配置。つまり大番が暮らしていた場所であることが番町の由来とされる。大番は一番組から六番組まであり、その名残が現在の一番町から六番町のようだ。名残が、と言うのは、当時の番町と現在の町の境界が一致していないから。
江戸時代の番町は上中下、土手など一〜六の番町がさらに細分化されており、「番町にいて番町知らず」なんて言われたそう。時代を経るごとに複雑化していった番町は、あまりの細かさゆえ詳細が一枚の地図に収まらず、宝暦5年(1755)に『番町絵図(吉文字屋板)』という切絵図が発売されたほどだった。
やがて時は移り明治になると、旗本屋敷は次々となくなり、変わって華族や政府官僚の邸宅が並び始める。

ちなみにというか、たいした話題ではないが、番町と聞くと、江戸時代に広まった怪談「番町皿屋敷」を思い起こす。その舞台はJR四ツ谷駅北側の外濠公園から市ヶ谷駅にかけての五番町あたりとされる。

 

 

文人だけでなく、多くの偉人が集っていた。

 

明治5年(1872)、明治政府から皇居そばの大名屋敷跡を与えられたイギリス政府は、そこをイギリス公使館として使用し始める。時を前後して、旗本が去り閑静な住宅地に生まれ変わった番町には、文人が移り住むようになってきた。
通りの一角、交差点にある建物横の案内板には、有島武郎・生馬、里見 弴の父親が明治29年(1896)にここを購入して自邸としたため、兄弟はここで育ったとある。
そのほかにも、時代や順序に関係なく居住した人々を列挙すると、武者小路実篤、平塚らいてう、与謝野鉄幹、国木田独歩、内田百聞、直木三十五、寺田寅彦、永井荷風、東郷平八郎もいた。
幸田露伴が「ここは文人町ですね」と言った(有島生馬著『大東京繁盛記・山手編』)ことから、その中心的な場所である麹町大通りから大麦通りへ抜ける道が、「番町文人通り」と呼ばれるようになったとされている。

シンプルに、スゴいな、と思った。日本史の教科書や資料集で見かける人々のオンパレードである。このような人々が暮らし、道ですれ違って「やぁ、どうも」「ごきげんよう」なんて交わしながら行き交っていたのかと想像すると、ワクワクするし、ニヤニヤもする。
ただし時代とともに街の姿も変わり、偉人達の旧居跡がほとんど残っていないのは、残念で仕方がない。建物など、暮らしていた片鱗がいくつかでも感じられれば、当時の息吹を想像するとか、もっと歩くのが楽しくなったかもなぁ、そもそも観光地ではないから、そんな必要はないのかなぁ、なんて。

 

 

訪れたことで知り、後日調べてみて、記憶になる。

 

いろいろな土地を訪れて、現地の案内板やパンフレットで初めて知るものやことは、相変わらず多い。むしろそれらとの「出逢い」を多少なりとも期待しての、あてなく進む旅の道程だったりもする。
現地で尋ねられる人がいればその場で知識を得るといい。その先へと歩む足取りが、きっと軽やかになる。

もちろん誰もいない場所であっても、写真やメモ書きで残しておけば、いつでも調べることができる。僕の場合は後日調べる方が好みで、なんだか追体験をするように、ワクワクがまた湧き起こってくるのである。
この場合重要なのは、建物、場所、いろいろなものやことに、それが何なのか、名前だけでも記しておいてもらえることだ。何もないと、何も気づかないかもしれない。
とはいえ、じっくり周辺を観察すれば何かしらのヒントはあるかもしれず、それらを探していくのも、楽しいものではある。
旅先で出逢ったものやことを、その場だけの遭遇にせず、後日調べることは、記憶の影を濃くしていくための作業だ。
調べているうちに、また気になって行きたくなる、なんてことにもなるし。

 

番町文人通り

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