石工の遊び心に、思わずニヤリ。
熊本県は、石橋の多いところである。いわゆる石造の眼鏡橋は県内に約320基あるといわれ、そのいくつかは、「肥後の石工」と呼ばれた種山石工という、匠集団が手がけたものだ。
そのひとつ、御船町の山間地域に掛かる下鶴橋を、今回は訪ねてきた。
折しも50数年ぶりに緑川が記録的な水位となった豪雨のあと、石橋も被害を受けてやしないかと心配だったが、でん、とそこにあった。
緑川(緑川水系)は、熊本県の中央部を宮崎県との県境に近い三方山から有明海へと流れており、山の間を縫うように走っている。その地形的特徴からか、県内の石橋のうち80基以上がこの緑川流域にある。
その緑川水系の一部・八勢川に架かるのが下鶴橋。肥後の石工の名が全国に知られるきっかけとなり、種山石工の中でも名石工のひとりとされる橋本勘五郎と、その息子・弥熊が4年の歳月をかけ、明治19年(1886)に完成させた。
橋の基礎部分には、先ごろ国指定重要文化財となった通潤橋に採用されている、熊本城の鞘石垣造りの技術が応用されている。丸みを帯びた欄干と擬宝珠柱が特徴的で、ほかにも、親柱にとっくりや盃の形の抜きがあるなど、遊び心がある。
弥熊が酒好きだったことからこのような意匠が施された、とも。
なお、この橋は勘五郎が代を譲り、弥熊が種山石工の六代目棟梁として初めて架けためがね橋でもある。
肥後の石工の系譜
橋本勘五郎は、江戸末期から明治時代にかけて活躍した肥後の石工。
熊本で携わった通潤橋によって全国に名が知られることとなり、明治初期には政府に宮内省土木寮として雇われ、旧江戸橋などに関わった。東京と名を変えたまちで勘五郎は、関東の石工たちに架橋の技術を惜しげもなく伝え、やがて帰郷。そのあと、下鶴橋を手がけることとなる。
4年もの歳月がかかったのは、もしかしたら息子へすべてを伝えるためだったのかも。
ところで。
種山石工の祖は藤原林七と呼ばれる、長﨑奉行所の元役人。
長﨑には中国の技術による眼鏡橋があり、林七はオランダ人の通訳を介して、その技術を学んだという。しかし当時、日本人が異国の人と交流することは御法度だった。お咎めを受けるかもしれないと身の危険を感じた林七は、船に潜んで肥後(熊本県)へ逃げ、大きな採石場があった種山村に流れ着いた。そこで現地の石工たちと試行錯誤を繰り返し、確立させたのが種山石工の技術だ。林七はここで藤原性を捨て、種山性となっている。
技術は子から孫へと伝わり、林七の長男・嘉八の子(林七の孫)である丈八へつながっていく。この丈八こそ、石橋造りの名人・勘五郎である。
種山石工の手による石橋の総数は、残念ながら定かではない。しかし熊本県内で現存しているだけでも、10はくだらない。
ひとつ気になるのは、種山石工による石橋造りの技術が確立されるもっと前、加藤清正は熊本城を築城している。その際に清正が呼び寄せたのは、石積み技術で日本のトップに君臨していた滋賀の穴太衆。彼らの一部は慶長12年(1607)に熊本城が完成した後も肥後に残り、清正による治水事業や干拓堤防の築造などにも関わった。
林七が眼鏡橋の技術を持ち込んだ種山村の石工たちも、八代周辺の干拓事業に関わっている。ここで穴太衆の技術と長崎から持ち込んだ技術の交差があったのでは、ないのかなぁ・・・。邪推かもしれないけれど。
余談ついでに書いておくと、近隣の宇城市にも、下鶴橋があった。こちらは安見下鶴橋と呼ばれ、架橋されたのは嘉永元年(1848)と、御船町のものよりも古い。
残念ながら平成28年(2016)の大雨により流失してしまったようだ。
写真で見る限り、柔らかなアーチが印象的な石橋だった。
ずっとそこにある、ことの価値。
御船町の下鶴橋は、架橋されて以後90年以上、熊本の中心部と宮崎とを結ぶ主要道路の一部として活躍してきたが、昭和末期、ついにその役目を近代橋に譲ることとなる。
その後は町の文化財に指定されているが、この山間地域までわざわざ尋ね来る人は少ない。
ところが、今回訪れて驚いたのは、橋上がきれいに掃除されていたこと。
緑川流域には大小様々な石橋があり、それらには役目を終えて風景の一部となっている橋も多いが、地域の人の手で、守られているように感じる。
特別な感情というよりも、長くそこにあるから、だろう。
まちの人口が減ったり、人口構成が変化し、道路も新たになり、古くから暮らしを支えてきたものが、やがて忘れられていくことは世の常だ。
しかし、こうして残っているものが多々ある。
これらの価値とは「そこにずっとある」ことに他ならない。
ずっとあるだけで、風景に溶け込んでいるだけで、美しいのだ。
願わくば、語り部すらいなくなっていくまちに変わり、
記憶を記録し、次代につないでいければ。
やや苔に覆われ、頑丈な気高さはそのままの石橋、実に美しかった。