日常のとなり。

谷あい、かつての宿場町に新たな賑わいを感じた若狭・熊川宿

御食国から、鯖がつないだ海と都

 

若狭湾に面した福井県小浜は、日本海側では珍しい大規模なリアス式海岸を有し、若狭ぐじ、日本一寒い場所で育つ若狭ふぐ、夏に旬を迎える岩牡蠣、鰈に鯖と、豊富な海産物を産出する地域。古来、良好な漁場であり、飛鳥・奈良時代頃からは朝廷へ塩や海産物といった食べ物を献上する「御食国(みけつくに)」だった。
江戸時代になり物流が発達すると、「若狭物」とよばれる海産物が、京をはじめ各所で知られるようになる。若狭鰈、鯖はその代表格だ。
なかでも鯖は18世紀頃より水揚げが増え、様々な物資とともに京都へ運ばれ、重宝された。若狭湾から京の都まで約72㎞。「鯖街道」と呼ばれる道を通り、若狭で塩を振った鯖がちょうどいい塩梅になる頃、都へ。

京の都では、脂の乗った上質な若狭物の鯖を使い、鯖寿司が名物となった。
かの北大路魯山人も、春秋の若狭の鯖を絶賛している。

 

峠の手前、街道の宿場町へ。

 

「鯖街道」は、日本遺産第1号認定のひとつ『海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群〜御食国若狭と鯖街道』の構成要素のひとつ海産物も、工芸品も、人も、若狭のあらゆるものが、この街道を通り、京へ運ばれ、さらには全国へと広がっていった。
余談だが、関西に春を告げる伝統行事である奈良・東大寺の修二会(お水取り)は、それに先駆けること10日前に、小浜の神宮寺で執り行われるお水送りとセットである。奈良に都があった頃から、若狭と都は道だけでなく、文化もつながっていたということか。

小浜を出発した鯖街道は、現在の国道303号線を滋賀県へと向かう。水坂峠手前に県境があり、その福井県側最後の宿場町が、熊川宿。
室町時代、足利尊氏より若狭瓜生の下司職に任ぜられた沼田氏は、山城である熊川城を設けた。この沼田氏は、光兼の代に、彼の娘・麝香が戦国時代・江戸初期に活躍した細川幽斎に嫁いでいる。
織田信長や豊臣秀吉も熊川城のあった地域に立ち寄っており、丹羽長秀の若狭入りによって熊川城は廃城となるものの、秀吉の命により若狭小浜城主となった浅野長政は、交通・軍事両面での要所であった熊川を諸役免除とし、熊川城下の町を、宿場町として整備した。

約1㎞の幅に40戸ほどの集落は、宿場町となってことで200戸超までふくらんだ。
奉行所や問屋、寺社、茶店に宿と、整備された宿場町はたいそう賑わったようだ。

 

新たな息吹が、時代をまたぐ、か。

 

そして現代。
平成8年(1996)に重要伝統的建造物群保存地区に選定され、平成27年(2015)には、先述の日本遺産構成要素となった。これらを機に、かつての宿場町に残る古民家の利活用や、コンテンツの造成がスピード感、質感を増したようだ。

面白いな、と感じたのは、そんなに広くはないかつての宿場町の中に、複数の古民家宿泊施設が誕生していること。少しずつ、趣の異なる感じも、まるで往時の宿場町のようで、よいのではないか。宿場町や近隣で体験できるアクティビティもいくつかある。

歴史遺産を活用して、地域の文化に地域の人々が誇りを持ち、次代へつなげていければ、素敵なことだ。
どんな地域にも、そこならではの歴史や産物が、異なるレイヤーで、湯葉重ねのように積み重なっている。それを縦に見るか、横から見るか。

 

熊川宿

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