日常のとなり。

生死の狭間、東山。<2>

山ではない霊山へ。

東大路通を東に越えると、現在の東山の中心地域。猫も杓子も歩く東山。東大路通から一念坂、二年坂、産寧坂あたりを境界として、町がある。
松原通は清水寺方面、五条坂と交わるところまで続いているが、途中で産寧坂を抜け、二年坂へ。
一念坂が近づいて来た辺りで更に東へ逸れる。
残念なことに電信柱が二年坂を往く人から完全に存在を遮っているが、角に「開山国阿上人参詣道」の道標が立つ。こういうところに配慮できないとは、やはり京都は残念な町。
国阿上人とは時宗の僧侶で、道の終着点にある最澄が開祖と伝わる正法寺を中興し、時宗の寺院とした。ちなみに正法寺、山号を霊山または霊鷲山といい、最澄の創建時は霊山寺であったという。ゆえにこの辺りを霊山というのであって、決して霊山という「山」があるわけではない。
「ふとん着て寝たる姿や東山」と詠まれた東山三十六峰では霊鷲山と呼ばれる。

さて、東へ逸れたら、ずっと上りだ。上りきったところに正法寺はある。そして手前に、霊明神社がある。神社ではあるが、長い参道や拝殿に本殿など、いわゆる一般的に知られる神社の境内があるわけではない。なぜならここは、神道葬祭を目的にした神社だからだ。
創建は文化6年、光格天皇に仕えた国学者・村上都愷(くにやす)がこの地で神道葬祭場を開いたことによる。
彼は国学者であると同時に神道も学んでいた。江戸時代、寺請制度によって民衆の葬儀は仏式のみとされていたところに神道葬祭を断行したため、当初はかなり迫害されたと霊明神社の神主・村上浩継氏に聞いた。氏曰く、当初は迫害を逃れるために、霊明神社で神道葬祭を行うは時宗の格好で神社に集まり、仏式の葬儀を装っていた。創建から10数年後に吉田神道の吉田家より許状を得てようやく正々堂々と神道葬祭が行えるようになり、現代に至る。

志士は、霊明神社を頼った。

今でこそひっそりと佇む社ではあるが、幕末には勤皇志士たちに頼りにされた。幕末の京都は尊王攘夷派の争いの中心地。洛中で命を落としてしまった勤皇の志士は、亡骸が同士によって霊明神社に運ばれ、神道葬祭によって見送られていた。
そもそも神社3代目神主の都平(くにひら)は久坂玄瑞と親交があり、玄瑞を通じて長州藩士を中心に広く勤皇志士たちに霊明神社の神道葬祭は知られていた。坂本竜馬や中岡慎太郎らの葬儀を執り行ったのも、霊明神社である。
竜馬は生前「霊山に参詣に行く」と霊明神社を訪れていた。彼だけでなく、吉田虎太郎など天誅組の志士たちも、神社に参詣していたようだ。
当時の霊山は正法寺、霊明神社以外に周りに建物らしきものはなく、ほぼ森。ゆえに霊山に参詣と言えば前述のどちらかだが、勤皇の志士ならば、神社のほうだろう。

志士たちの亡骸を運んだのは、先ほど二年坂を逸れて上ってきた道。
この道は現在「幕末志士葬送の道」と名付けられている。もっとも当時は石段などなく、ただの山道だったが。
竜馬や慎太郎の葬儀にはさぞや人が集まったことだろう。しかし神社を見る限り、それほど人が入れそうな場所はない。
浩継氏に聞くと、往時は2,000坪近い境内地を所有していたそうだ。
その一部は、現在京都霊山護国神社で「旧霊山官修墳墓」として有料公開されている墓地。
実はこの墓地一帯は霊明神社の奥津城(墓地のこと)だったが、維新に尽力した志士たちを明治政府が政府として祀ることにし、土地を公収、墓地の一角に官祭招魂社を建立した。これが京都霊山護国神社の前身。なんだか承伏しがたい話であるが、そこに逆らうことなどできない時代だったということか。
ちなみに現在も旧霊山官修墳墓の敷地内には霊明神社社中の墓があり、それらに参る人たちは護国神社からではなく、霊明神社を通って向かうそうだ。

浩継氏は言う。初代都愷は東山一帯が人の葬祭場だったことも承知の上で、というより承知していたからからこそ、その御霊の安寧も願うために、東山を見下ろす現在の地に神社を創建したのではないか、と。人を見送ってきた土地の歴史は、やはりどこかには残っているものだ。東山ではそれが、霊明神社という存在なのだろう。
そういえば霊明神社境内西南角には六条河原院ゆかりの猿田彦明神神石が末社として祀られているが、その背後には京都市内が広がっている。もちろん、御所も見える。都愷にとって神道葬祭場を開くには、この場所しかなかったのかもしれない。

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