日常のとなり。

時代において行かれた、砂州上の民宿街、小天橋。

静かな、静かな山陰の町。

 

京都府と兵庫県の境、日本海側に久美浜町がある。小天橋砂州によって日本海と隔てられた久見浜湾があり、静かな、そして眺めの良い町だ。
小天橋というのは、久美浜町東隣の網野町浜詰から7キロ余りに渡って続く丹後砂丘の西端・湊宮に延びる、全長約3キロの砂州のこと。同じ丹後半島の宮津市にある日本三景・天橋立に似ていることから小天橋と名付けられた。

日本の白砂青松100選のひとつであり、貴重な海浜植物の宝庫でもある。

久美浜湾岸地域の歴史は古く、古代には朝鮮半島との交易で栄え、中世には荘園、近世に入ると天領となり、久見浜湾南側の集落では、丹後ちりめんで財を成す者、北前船航路の廻船業で成功する者が出た。小天橋のある湊宮では、16世紀に420石〜850石積の船が19艘あったことが記されているほど、廻船業は地域に活気をみなぎらせた。

湊宮に往時の面影はないが、とにかくここは風が心地よい。朝には久見浜湾の南方から、午後には日本海側から、不思議と潮の香りが濃くない風が抜ける。風に誘われ湾岸や海岸線を歩いていると、頭上では鳶が気持ちよさそうに舞っている。

この時間をひととき自分のものとできるだけでも、訪れる価値が十分にある。

が。

 

人々の遊び方が、変わった。

 

丹後ちりめん産業が不振となってきた昭和40年代には、観光業が地域経済を支える柱となった。
この頃には小天橋を中心に民宿が多く誕生、50年代まで昼夜問わず観光客で賑わった。小天橋の日本海側は海水浴場として人気を博し、浜茶屋が40軒近く並び、どこも人でごった返していたという。今は静かな民宿街だが、当時は夜になると往来の人の肩がぶつかるほどの人混みで通りは混雑し、深夜まで人の声が絶えなかったと、ある民宿の主人が言った。

現在の民宿街からは想像もつかないが、その頃にはディスコもあり、人が多すぎて、交通整理のために毎夜警官が立っていたという。

それから40年ほど経った現在。昼も夜も、民宿街は静かだ。冬の松葉がにシーズンには多くの民宿が活況となるが、3月後半になるとまた、通りは風が主な通行者となる。

「観光の方法が変わりましたからね。海水浴には今でもそこそこ人がいらっしゃいますが、皆さん日帰りです。遊び方が変わってしまったから、しょうがないです」

小天橋に宿を求めたとき、ほとんどの民宿で夕飯がついていなかった。そのわけを民宿の主人に尋ねると、彼は現状をそう言う。加えて高齢化、後継者不足により、夕飯の支度ができなくなってきている。ゆえに一泊朝食付き、朝食もそのうち提供できなくなるのではないか、と。
しかしながら昼間の観光がメインの町で、夕飯を求められる場所はそう多くない。民宿に宿を取る人の多くが、近隣のスーパーマーケットやコンビニで夕飯を買い、宿で食べている。
楽しみの少ない夜もまた、人を離れさせている一因なのかもしれない。

 

レッドデータブックに載る。

 

京阪神から丹後半島へのアクセス向上のために有料道路が整備されたが、最寄りのインターチェンジまで1時間はかかる。鉄道は通っているが本数が少ない。
インフラ整備からも置いていかれた観光地だ、とは主人の弁。

ちなみに小天橋は、京都府環境部が発行する京都府レッドデータブック(2002年版、2015年版)にて要注意のカテゴリに分類されている。
選定理由として、小天橋は「教育上、地形研究上、注目すべき地形。地域において生活と密着した存在であるものやランドマークとして親しまれている地形」であることが挙げられている。「海岸部は海水浴場として広く利用されており、丹後地方の貴重な観光資源の一つとして、また、貴重な海浜植物群落地として保護されるべきである」ともある。

とはいえ、訪問客が多くない場所に環境整備の予算は下りない。地域の活気も、保護にまで力を及ばせられるほどもない。すでに廃業している民宿も出てきており、この流れは今後も続いていくのだろう。

週末や連休にいそいそと観光する流れがスタンダードになってしまった現在。時の流れが緩やかで穏やかで、自分のペースで歩ける町や地域を旅することは貴重な体験となってしまったようだ。流れからはずれ、時間や土地が自分に与えてくれるなにものかを感じられる瞬間は、このような地域にこそ、今は眠っているのではないかと思えた。

 

小天橋

 

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