日常のとなり。

「輪」をもって貴し。争いも解決してきた。

噴水ではなく、分水である。

 

初めて見たのは、九州熊本・山都町だった。田んぼが広がる土地に突然、円形で、水が噴き出すコンクリート造のものが現れたのだ。
こんなところになぜ噴水? と思ったが、案内板を見るとそれは「円筒分水(円筒分水工)」という、れっきとした用水供給のための設備だということがわかった。
分水というのは文字通り、水を分けて供給する機能を有するもの・場所。分水の手前には用水があり、川の水を用水でひき、それを流域の水田へ均等に分ける。おおまかにはそんな役目。

日本は水の豊かな国だが、一方で、海外と同じく水争いも絶えなかった。
多摩川から二ヶ領用水で取水した水を4筋の堀に分ける方法で流域の水田に水を分配していた神奈川県川崎市の久地地域では、渇水による水不足が深刻化したことで用水の上流と下流の村との間で争いが起こった。争いの果てに、下流の村人たちは上流の銘酒の家を打ち壊したということが、江戸後期の記録に残っている。
水が人の生死にとって、作物の生育にとってどれだけ重要か。そこは昔も今も変わらない。

久地で採用されていた、二ヶ領用水からひいた水を4筋の堀に分ける方法は「分量樋」というもので、水路にいくつかの仕切り壁を設けて水を分ける「背割り」で水を送っていた。水田面積の大小によって水量を分ける必要があったためだが、この方法だと、水流の早い場所と遅い場所では水量が違う、水路の勾配によってももちろん違う。そもそも公平だと誰も感じていなかったのだろう、だから、渇水のたびに争いが起こっていた。
この水争いは、大正時代に入っても起こっていたという。

 

円形の設備で、争いも円く収めた、すごいヤツ。

 

その久地にも、円筒分水がある。外円の直径はなんと18メートル、中心には直径8メートルの円がある。二ヶ領用水の水を管で地下に流し、水圧を利用して内側の円筒から噴出させる仕組みだ。円筒も分水する堀も、鉄筋コンクリート造。水門などの可動域がないため、人の手による不正もない。水は噴出し、堀へ流れているため、誰にも水量が見える。
昭和16年(1941)に完成したこの円筒分水により、何百年も続いた流域の水争いは以後、起こることはなくなった。
現在は農業用水としての役目を終え、環境用水として住民の憩いの場となっているようだ。

東急溝の口駅から大山街道を進み、溝口神社の先から左へ曲がると、円筒分水までは住民のみなさんにより整備された用水が続く。幅1メートルほどしかない用水だが、真っ直ぐに伸びる用水沿いは、いい散歩道。
ちなみに久地円筒分水は、関東圏では最大規模。円筒分水が全国に広まり、各地の水争いを終わらせることに大きな役割を果たしたこと、そして歴史的な重要性から、平成10年(1988)には川崎市で初めての登録有形文化財となっている。

 

日本人が発明した、画期的なシステムだった。

 

鉄筋コンクリート造でヨーロッパの遺跡を思わせるデザイン。当然、海外から技術を輸入して、国内に広げたのだと思っていた。
しかし円筒分水は、れっきとした日本生まれであった。
発明したのは、大正時代に農商務省技師を務めていた可知貢一氏。発明の理由は定かではないが、各地の水争いを終わらせるため、氏は用水の研究をしていたのだろう。
昭和になり全国へ広まったのは、氏が発明した放射式と呼ばれる分水装置で、その第1号は大正3年(1914)に、現在の岐阜県多治見市に設置された。氏は前身となる扇状分水をこれ以前に開発していたが、それではまだ争いを終わらせる決定打に欠けていたのだろうか、改良を重ね、放射式分水装置を完成させた。
なお、円筒分水の魅力は技術だけではない。独特の曲線美、どっしりとして、かつ繊細なフォルムは、見飽きない。
サーッと石肌を滑り落ちるかすかな水の音は、しばしの間、いろいろなことを彼方に追いやってくれる。輪は和に通じる。だからか、ほっとするのだ。

 

久地円筒分水

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