日常のとなり。

どこかのまちの、誰かの暮らしの音。

旅のアップデート。その時、旅人は?

 

少しずつ、旅が日常の一部に戻って来つつある。
コロナ禍に慄いた2年間は、旅どころか出かけることそのものが世界的に控えられていたが、その間、何かが動いていた。
オンラインツアーが生まれた、観光業関連の人々は次の一手を模索した、旅をしていた人々は、出かけられないことを別の何かで満たそうと・・・などなど。
ここじゃないどこかへ行くという実体験は、私たちの生きていくという行為に何かしらの影響を与えていたのだ、必要なのだと、多くの人が気づいたのも、この2年間だったのではないか。

そして2022年夏のいま、旅という行為にまた、誘われ始めている。行きつ、戻りつする日々はまだまだ続くのだろうが、旅に出ようという気持ちを叶える土地や宿や、行事や、プランが、そこかしこで手を振り出している気がしてならない。
さて、どうだろう? 私たちはこれまで同様の旅に、また出るのだろうか。名所を訪ね大広間で食事をいただき、部屋に帰れば布団が敷いてあるような。

そろそろ我々も、新たな未知を探しに行くときでは、ないだろうか。

 

一晩だけ、そのまちの人になってみた。

 

2014年に日本上陸を果たしたAir bnb、住宅宿泊事業法(通称:民泊新法)施行に合わせてスタートしたVacation STAYなど、日本にもシェアリングエコノミー形の滞在スタイルがだいぶ広まった。なかにはその地域ならではの家屋を一棟貸している物件も多く、それらは、非日常の少し向こう側へ歩みを進めるのにうってつけではないだろうか。
山間部の集落に残る、養蚕家が暮らしていた家、鰻の寝床の雰囲気が残る京都洛中の町家など、これまでの物語を内包している宿泊施設は探せば結構あって、宿泊予約ができたら、それから当日まではいろいろな想像、妄想、空想が旅前の友だ。
多くの場合はリノベーションされたキッチンで調理も可能なため、地域独特の食材を購入して料理に挑戦するのもいい。近くの商店街をぶらりと歩き、おいしそうなおかずをたんまり買って、食べてみるのも醍醐味だろう。まるでまちの人が夕暮れ時の買い物でそうするように。
近年は住宅の形もまちの佇まいも大きく変化しているから、暮らしの香りはなかなか楽しめないかもしれない。が、音はある。
家路へ急ぐ子供の足音、立ち話に花が咲くおばちゃんたち、巣へと戻る鳥の羽音、などなど。
時期によっては地域のお祭に遭遇することもあるだろう。祭の賑わい、祭りの後の静寂、その中でかすかに聞こえる余韻は、暮らしを想像するに十分だ。

先日夏の盛りに近付いた京都へ向かった。高台寺下の町家に宿をとり、錦市場で夕餉のおかずを買い、風呂を済ませて夜のねねの道をふらりと歩く。
神輿渡御の熱気がすっと消え去った八阪神社の門前には、嵐の後のように静寂が訪れていた。観光客の姿はない。ちらほら明かりが灯る飲食店から漏れ聞こえる話し声、家々のテレビや風呂の音、そんなものが、通りに流れてきていた。

ふと、旅先のまちで音に触れ、そこで暮らす自分の姿を思い描いてみる。そんな楽しみが、たくさんあると、なんだかいい。

 

いつもの道の、ひとつ隣でも。

 

とはいえ、そんな想像、妄想、空想は旅に出なくてもできる。毎日だって。いつも歩く道の、ひとつ隣へ歩みを進めてみればよいのだ。すると自分が暮らしている場所が別のまちのように見えるかもしれない。トレーニングのようなものか。旅人としての自分の姿を旅先のまちの人としての自分が眺める、その楽しみのための。

情報過多な現代。どこそこへ行かずとも、ある程度の情報は探せばふれられるようになっている。だがそこの「今」は、行かなきゃ感じることはできない。
感じるため。それは自分をアップデートすることにもつながりはしないか。つい情報に受け身になってしまっている日常から、自分を解放するのだ。

知らないことに触れることで知らないことがまだまだたくさんあるという事実を知る。回りくどいかもしれないが、そんな面倒な形もまた、ひとつの旅。

 

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