日常のとなり。

都を見下ろし、何を思うか光悦寺。

洛西の山間に閑居あり。

 

京都はいつも、訪れる人で込んでいる。
そんな印象だ。
インバウンドが復活し始めて世界各国からたくさんの人がまた来るようになった。もちろん日本人観光客も多い。言わずもがな、郊外ではなく京都府の中心地は、生活している人、働きに来ている人も多い。
歩いていてもなかなかいい空気は吸い込めないなぁ、なんて思うことしばしば。

洛西も金閣寺周辺はそんな様子だ。
が、その北、鷹峯までは、歩みを延ばす人の姿はそこまで多くはないのではなかろうか。
そこに、光悦寺がある。
初夏は青紅葉の参道が涼やかに人を迎え、秋は美しく整えられた庭を染める紅葉が艶やか。

琳派の祖と呼ばれる本阿弥光悦を偲び、彼が結んでいた草庵の場所が寺となった。
現在の境内には、光悦の草庵だったと言われる大虚庵をはじめ7つの茶室が点在している。本阿弥光悦の子孫はやがてここを去り、草庵のあったあたりは廃れていったようだ。大正時代に入り復興されるのだが、その折、庭は7代目小川治兵衛が担当している。

 

 

理想郷か、集合地を求めるがゆえ、か。

 

本阿弥光悦その人は、洛中の上層階級に属する町衆だった本阿弥家に育った。家業は刀剣の鑑定や修復である。しかし光悦は本業そっちのけで、書や漆芸など工芸に傾倒し、後年には陶芸や茶の湯にも才を発揮した。
自身で手がけるだけでなく、無名だった俵屋宗達を見いだすなど、若い才能を引っ張り上げることもやっていたようだ。

やがて、その力を少々恐れたのか、厄介払いなのか、本人の希望を聞き入れてなのか真実は定かではないが、関ヶ原の戦いで実権を握り、江戸幕府を開くに至った徳川家康より、追い剥ぎが出るような、お世辞にも素敵な場所とは言えない鷹峯の土地を拝領し、一族の人間や芸術家仲間、多様な工芸職人を誘ってそこへ移住する。
もっとも、洛中の家も残し、行き来もしていたようだが。

かくして鷹峯には通称「光悦村」となる芸術家たちの集落が誕生する。画家に蒔絵師、金工、陶工、筆屋や紙屋もいた。
そこは多種の工芸の制作に多様な職人が打ち込める環境。光悦は彼らと語り合い、時には進言し、新たな芸術を創ろうとしたようだ。集落には同じく洛中の上層町衆だった豪商も居を構えており、完成した作品を世に出すルートも、確保していたのではないだろうか。
戦のなくなった世でこれから人々を元気にするのは芸術だ、と考えたのか。
それとも、移住した多くの者が法華衆徒だったことから、鷹峯に祈りの地を設けようとしていたのか。

元和元年(1615)に鷹峯を拝領し、その4年後の元和5年(1619)に本格的に移住した光悦は、光悦村中心部から少し離れた、やや高台の土地に草庵を創る。
その場所からは都が見下ろせた。
寺の方に話を聞くと、見下ろす風景は変わったが、目の前に見える鷹峯三山は光悦が見ていた時から変わってはいない、と言う。

 

 

少し離れているくらいが、ちょうどいい。

 

都の武家だけでなく諸国の大名、もちろん都の町衆にまですでに名が知れ渡っていた光悦ほどの人物は、まだまだ洛中にいて、好きなように活動できたはずだ。
家康はまだ若き頃より、実は光悦と親交があった。一説によると、京都にいた家康が家臣に対して光悦の様子を尋ねるのだが、その人物が光悦から持ち帰った言葉は、ちょっと疲れて、都から出たいとも思っている、といった内容だった。
自分を頼ってくる者、思惑があり近付いてくる者、日々色々な人に囲まれていただろうから、そんな人付き合いに疲れたのか。人で賑わい始めた都が騒々しく思えたのか。
世を捨てるつもりはまだないが、ちょっと距離を置きたいなぁ、都とも人とも。そんなことでも考えたのだろうか。

毎日草庵へ通い、念仏を唱え、茶で心を落ち着け、顔を上げると遠くに見える京の都。
やっと自分のペースで生きていける。

紅葉の時期でもないと、光悦寺を訪れる人は多くない。平日なら、なおのこと。
庭園の静けさ、そこからの眺め。設けられたベンチに腰を下ろし時間を忘れ、光悦の思いに心を重ねてみる時間が、ここではどれだけでもあった。

 

光悦寺
京都府京都市北区鷹峯光悦町29

 

 

 

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