寺と神社とまちと人。

大坂が砂州と孤島だった頃からの祈り。難波神明社旧跡

歓楽街の片隅に、旧跡を示す碑

 

今回も大阪を歩く。

 

大阪のまちがまだ平野ではなかった頃、上町台地は半島のようであったし、現在の市内から大阪湾にかけて幾筋もの川が流れていた。
大阪市北区あたりは今でこそ繁華街・歓楽街が広がっているが、大阪駅の東側にある曽根崎町界隈は砂州で、曾根洲とも、「大神宮の北の洲」「神明の鼻」とも呼ばれていた。
今回はこの「神明の鼻」の由来である、曽根崎町の難波神明社旧跡を訪ねた。

平安時代の頃の一帯は砂州の端の方で、ところどころに孤島があったようだ。そのうちのひとつに、源融が天照大御神、豊受大神を勧進したのが弘仁12年(821年)とされ、難波神明社が誕生した。ここには文治年間(1185年)には源義経が参拝し、願書を奉じたとも伝わっている。
西向きで大阪湾の夕日が美しい場所だったことから「夕日の神明社」と呼ばれていたそうだ。

やがて近辺が埋め立てられるに従い境内地も拡大。後醍醐天皇の時代には天皇が何度も行幸され、江戸時代には境内地がさらに広がっていた。

しかし、天保5年(1834年)の火災にて社殿が消失。
その後明治42年(1909年)の「北の大火」でも被災し、翌年の明治43年(1910)に、隣地の曽根崎二丁目に鎮座する露天神社に合祀された。

 

 

朝日、日中、夕日の神明社

 

難波神明社は「夕日の神明」だが、大阪市内にはもちろん朝日も、昼間をさす日中も、それぞれ神明社がある。

「朝日の神明」は、現在此花区春日にある朝日神明社で、もとは中央区神崎町にあり、明治40年(1907)に、現在の地へ移された。
そもそもの鎮座は天慶年間で、源義経と梶原景時が櫓のつけ方で議論した逆櫓社もこの地であるという。当初の鎮座値は上町台地の西の斜面、その先から海へ出られたことから、ここで軍議が行われたのだろうか。
もっともこの軍議ののちに義経は「夕日の神明」へ参拝し、何かしら奉納したのちに願書を収めた。朝日と呼ばれるだけあり、社殿は東向きだったという。

「日中の神明」は、京都の西院からはるばる大阪へ、元和2年(1616)にやってきた。勧進したのは松平忠明。徳川家康の外孫でのちに養子となり、徳川大坂城の初代城主となった大名である。大坂夏の陣へ向かう途中に西院の当社に戦勝祈願をしたところ大いなる戦功を立てることができたので、これは神明神社の霊験だということになり、城下町の蝋燭町に神明神社として遷座した。城下町の人々からは日中神明と呼ばれ、町人の祈願所でもあったという。
やがて時代が変わり、周辺の地域が開発されるに従い境内地が縮小。近くを通る町屋町筋の拡張工事を機に、地域の人々のラブコールに応える形で大正区鶴町へ再遷座。
現在の社殿は、昭和20年(1945)に焼失したものも昭和23年(1948)に復興し、昭和28年(1953)再々遷座されたものである。
日中と名がつくこの神明社は、南向きだった。

 

町の人の祈りを受け継ぐ場

 

松平忠明による「日中の神明」遷座により、当時の大坂のまちに朝(朝日)、昼(日中)、夕方(夕日)の「大坂三神明」ができあがった。

それぞれがまちの人たちの祈願所として、とてもとても大切にされてきたようだ。ゆえに朝日と日中は遷座先でも立派な社殿と共に地域になくてはならない神社として現在も鎮座しているし、夕日は露天神社に合祀されたのちは跡地に石碑があるだけだけれども、露天神社によって清浄に保たれている。

大坂から大阪へ、時代が移ってもそれまでの祈りはこれからの祈りとつながって受け継がれるわけで、変化激しいこのまちは、根底では人の心がしっかりしているのだと、感服させていただいた。

 

難波神明社旧跡

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