山は、すぐそこにあった。
JR博多駅から国道3号線を経て、県道607号線に入ると、目線の先の方に薄墨色の山嶺が見えてくる。篠栗町を抱く若杉山だ。山を越えると飯塚市に入るのだが、遠目から見る分には、山々の先は海になっているのではないか、と思ってしまうほど、辺境の雰囲気がある。
が、博多駅からは車で20分もかからない。深い山まで、都市中心部からいとも簡単に行けてしまう、九州あるあるだろう。
いきなり話は逸れるが、九州には「山岳霊場」と呼ばれる場所がいくつもある。代表的なところでは福岡県の英彦山を中心とする英彦山六峰、太宰府の宝満山、大分県の国東半島や、ほかにも各県にある。
篠栗町の若杉山は宝満山を主とする山伏の修験場として、古くから知られていたようだ。英彦山へ入った山伏が若杉山に立ち寄っていたとも言われる。
遣唐使として唐に渡っていた空海(のちの弘法大師)は大同元年(806)に帰国。すぐに都に戻ることは許されず、しばらく太宰府に滞在した。
その折、若杉山へ来て、半年ほど修行したと伝わっている。
宝満山から峰づたいに歩いたのだろうか。
とにかく、若杉山は昔も今も、近かったのだった。
村人と僧侶が開いた霊場を、町の人と僧侶が守る。
さて、その若杉山を中心に篠栗町各所に札所を置き、篠栗四国は稚樹八ヶ所霊場が誕生した。弘法大師も修行した、霊験あらたかな若杉山、その祈りを広く伝えたいと考えた、尼僧慈忍を中心に。
福岡県の姪ノ浜で育った慈忍は、天保6年(1835)、四国八十八ヶ所霊場を回ったその足で、弘法大師の足跡を訪ねて篠栗を訪れた。そこで目にしたのは、疫病に困っている村人の姿。慈忍は弘法大師の伝承を思い出し、行場へ向かい祈ったそうだ。
祈りの甲斐あって、村は平穏を取り戻し、これを弘法大師のおかげと考えた慈忍は、四国八十八ヶ所霊場を篠栗に勧進することを村人に勧め、仏像20体を造立したという。
しかし88体までは至らず、そのあとを、信仰心の厚かった地元の藤木藤助が受け継ぎ、有志とともに残りの仏像を完成させ、さらに四国へ赴き、八十八の札所の砂を勧進して、篠栗に誕生した新たな霊場のそれぞれの仏像内に安置したという。安政2年(1855)のことだった。
以後、篠栗四国八十八ヶ所霊場は、その霊験が知れ渡り、盛況となったという。
明治19年(1886)、県令により篠栗心四国廃棄令は発せられるも、村長及び村有志の人々の努力の結果、高野山から南蔵院を総本山として迎え入れることで残置可となった。明治32年(1899)のことなので、村人たちは霊場を何とか残そうと、10年以上も健闘したのだった。
現在も篠栗の88の札所は、当時と変わらず地域の人と僧侶が共に守っている。
四国のそれとの大きな違いは、札所が寺院にあるとは限らないこと。遍路道を歩いていると、道路脇にお堂が現れる。また、旅館を訪ねると、門前にお堂がある。そして、札所で会った人に歴史を尋ねると、ほとんどの人が、おおよそ先述のような話をしてくれる。
町は今も祈りを中心としている、そんなことも感じてしまうのだった。