寺と神社とまちと人。

あとからお地蔵さんがやってきた。天王寺の八反田地蔵尊

霊験アラタカな阿弥陀如来様と地蔵菩薩様

 

日本各地、街角に、幹線道路沿いに、たくさんの地蔵尊がある。
それぞれに謂れがあり、大切に守ってくれている地域の人に、訪れた際に話が聞けるととても興味深いことが多い。
20年ほど前に大人向けの旅雑誌で京都中心部の地蔵に関する特集を任された際、『地蔵は続く』なんて意味不明な締めくくり方をしたのは恥ずかしい思い出だが、どこかへ出かけると、必ず地蔵を探す。

今回は大阪市天王寺区界隈へ、高野街道の起点や分岐点を訪ねに出向いた。
そこで、「地蔵尊だと思って長い間祀られていたが実は地蔵尊ではないことが判明したので新たに地蔵尊を迎えた」、という地蔵尊に出逢った。八反田地蔵尊という。

由緒書きにはこうある。

八反田地蔵尊由来記

霊験アラタカな八反田地蔵尊は今より凡そ一六〇年前、天王寺村の人々が五穀豊穣、悪疫退散と住民や子供達の無病息災を祈願し野辺の一体の地蔵尊を奉納しお祀りしたと記さる。

この地は江戸時代に摂津の里東成郡天王寺村と呼ばれ、他地域より早く新田が開発され八反田の地名となった。その地名から地蔵尊の名も由来している。爾後再建に当り河堀口の有志が石工小西屋喜兵衛の手により石堂壁に他力以来再建と刻まれ元治元年完成し今日に至る。この地蔵尊はお姿が地蔵尊とは異っている為、昭和六十二年秋に仏教学者の鑑定の結果地蔵尊でなく阿弥陀如来と判明した阿弥陀如来は上品な仏様で参拝者の声を聞かれ幸福と願い事に功徳を授けて下さる仏様であることが判った。

この八反田地蔵尊は、古より多くの人々に親まれ尊ばれてきたので昭和六十二年冬に世話人の協議により新しく地蔵尊像を作ることが決った。昭和六十三年二月吉日 新しく八反田地蔵尊として奉納され開眼供養がいとなまれた。地元の人々はもちろん近郷からも参詣する人が多く香華が絶えない。毎年八月二十三・二十四日に盛大にお祭りが行なわれる。従って今後霊験アラタカな阿弥陀如来様と地蔵菩薩様を御祈願することになります。御参拝下さい。

昭和六十三年二月吉日
八反田地蔵尊世話人会

 

 

異説にも、納得してしまった。

 

ご尊顔を拝むと、確かに如来さまだ。

調べてみると、文政年間に五穀豊穣、無病息災を願って、八反田に当地蔵尊が祀られたとのこと。興味深い異説というか、言い伝えもあった。
地元では古くから『元和元年5月の大阪夏の陣にて戦没した豊臣方の霊を弔うために、阿弥陀如来を本尊として祀った』との話も、地蔵尊の起源として伝わっている。
地理的かつご本尊が阿弥陀如来だったことから、この異説は無下にするわけにはいかんなぁ、と感じた。

それにしても、祠は立派である。
大阪・西道頓堀の『出世地蔵尊』も、地域の人が大切にしてくれていて祠がとても立派なのだが、同じようにここも、背筋正しく、道行く人を見ていらっしゃる。

 

 

そっと手を合わせる、祈りの街道。

 

ところで。
今回の目的は高野街道だった。
この街道についてざっくり説明すると、平安時代になり、律令制度の崩壊も関連してか、天皇家や公家だけなく庶民にまで仏教が拡がり、瞬く間に多くの人の心を捉えていった。そこで熊野詣でに代わって多くの人が、高野詣にでかけるようになり、誕生したのが高野街道である。

弘法大師が京都へ通った道とも言われる東高野街道と、堺から、行基の改修で知られる狭山池のある大阪狭山と高野山とを結ぶ西高野街道があり、西高野街道と大阪中心地とを結ぶ道として、下高野街道がある。
『大阪府史4巻 中世編 2』には、下高野街道の起点が「南河内郡野田村大字北野田廿山街道」、終点が「東成郡天王寺村大字天王寺大阪市界」とあり、そうか、高野山側が起点だから天王寺は終点か、といまさらながらに頷く。

八反田地蔵尊は、この下高野街道沿いに立つ。江戸期以降たくさんの旅人を見守り、交通の状況が変わった現在も、車、自転車、歩く人、乳母車を押す老婆、たくさんの人を見守ってくださっている。
地蔵尊の横には幹線道路が走っており、そこを渡る歩道橋の階段が、地蔵尊の隣にある。
上るとき、上って降りてきたとき、如来様とお地蔵様にそっと手を合わせて、また歩き出すのだ。

 

八反田地蔵尊

 

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