寺と神社とまちと人。

護られ、守り、今につながる。神田の小神社たち。

東京・神田。ミニ神社のまち。

 

神田に宿をとる機会があり、翌朝がのんびりと始まる日程だったため、早起きして、JR神田駅界隈を散歩した。
神田には、小さな神社がたくさんある。そしてほとんどを、各町内会の方々が守り続けている。中にはビルとビルの間にギュッと縮こまるように立っている社もあり(谷間社と勝手に名づけてみた)、それぞれ見て歩くだけでもなかなか楽しい。

江戸幕府の地誌編纂事業によって編纂された江戸に関する官選地誌である『御府内寺社備考』に書き上げられている神社は108社、それに代表的な2社を加えた110社を調査した資料によると、当時からある神社の分類は、メジャーな神社の分祀では稲荷神社44社、八幡宮17社、神明社7社、氷川神社4社、天満宮2社、熊野神社2社、諏訪神社・鹿島神社・熱田神宮・白山神社各1、その他が30社あった。
神田にも、稲荷神社がやはり多い。江戸時代の稲荷神社は『伊勢屋、稲荷に、犬の糞』とはやされるほど、各所に見られたもので、それほどに多かった理由について語られているのは、参勤交代で江戸城に出仕することになった大名が、郷里の豊作や発展を願い、そのご加護があるとされた稲荷社を、「稲荷勧請」で邸内の鬼門の位置に分祀したというもの。面白い説では、異例の出世を遂げた田沼意次の屋敷内には稲荷社があり、彼の出世がそのご加護によると言われたことから、真似する者が増えたとか。

ちなみに、なぜ神田に小さな神社が多いのかについても諸説ある。江戸時代この辺りには武家屋敷が多く、そこに屋敷神として祀られていたものが、武家屋敷がなくなって以後も町で祀られ続けたとか。
そもそも江戸時代は幕府の力が強く、寺社を管理、支配していたとされている。江戸城を整備する際には、城内の区画に鎮座していた神社を城外へと移転させていた。
神田は城外エリアで、しかも武家屋敷が多かった。そんな理由もあるのかもしれない。

 

 

往く場所で社やお堂を見たら、参ってみる。

 

地域の人々の手で美しく保たれている小さな神社は、神様の心だけでなく、連綿と守ってきた人間たちの思いもそこあり、尊い。神田だけでなく、これは全国で言えることだ。

もう20年ほど前のことになるが、ある伝統仏教本山の僧侶が、「家の近くや日常の行動範囲、旅先などで小さなお堂や地蔵尊、祠に出合ったら、拝んでほしい」と言っていた。彼は決して、自らが所属している宗派のお寺を大切に、とは言わない。その代わりに言葉にするのが先のひと言で、真意は、神も仏も、ただただ尊いと考えているから。

冬になるとニット帽やちゃんちゃんこを着せてもらっている小さな地蔵様、毎朝御神酒が供えられているお稲荷様、一つひとつに、地域との結びつきがある。その愛情に触れることができるのは、詣ればこそ。
年々、日常が早くなっていく。現代はそんな時代だ。ともすれば自分を見失いそうにもなる。朝でも昼でも夜でもいい、平日でも週末でもいい、前を通りかかったら足を止め、詣ってみよう。ほんの数秒かもしれない。が、その余裕をもつことこそ、今を生き抜くひとつのコツなのではないだろうか。

神田で5社詣ったところで、腕時計を見ると一時間が経っていた。ちょうど喫茶店がモーニングを始める時間。独り、ゆるやかに流れる時間を手に入れ、喫茶店へと飲み込まれていくのだった。

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