住吉の地で、山幸彦の伝承に触れる。
古事記は、いつ読み返しても壮大なロマンを感じさせてくれる。
ファンタジーのようでもあり、この国の成り立ちについて考えて見る機会をもらえたり、読了後に日常の何気ないことに目を向けるようになれたり。私たちが暮らしていくなかに、さまざまなエッセンスを与えてくれるものだと感じている。
日本各地を歩くと、その古事記の伝承が残る地、神社の多さを実感する。それらを目的とせず歩いているときでさえ、出合う機会は多い。全国住吉神社の総本社である住吉大社の近くを所用で訪れた時も、そうだった。
粉浜あたりから阪堺電車沿いをふらりと南行していた折、左手に、踏切の先に良い感じで奥に向かって緩くカーブを描く小径を見つけ、入ってみた。地面はアスファルトではなく、タイル。ということは何かしら歴史ある場所なのだろう、と歩みを進める。
ほどなく、右側が森となった。正しくは高い塀の向こうに森が現れた、だ。住吉大社の鎮守の森はこんな辺りまで来ていたか? と思いながら進む。と、ブロック塀から瑞垣に変わった辺りに石段があり、その奥に小さな朱塗りの門。社名はないが、先に見える景色から、ここは住吉大社ではないと感じた。
近くで地図を見ると、「大海(だいかい)神社」とある。住吉大社の摂社であり、山幸彦の伝承もある。しかし、人の気配がない。
住吉造のご本殿。脇の灯籠は地面に・・・
門の小ささから、こちらが正面でないことはわかる。一礼して境内へ入らせていただき、西側に見えた表参道へ向かい、石鳥居をくぐって境内へ入り直すこととした。
石段の先に木造の門があり、ここが西門。最初にくぐったのは北小門、住吉大社との境には北側より質素だが朱塗られた南小門がある。調べてみると、大海神社は幣殿・渡殿・北小門・南小門・西門・摂社本殿がまとめて国の重要文化財であった。幣殿も渡殿も、荘厳さを感じる。住吉大社の鎮座以前からこの地にあり、社殿も住吉大社より古く、宝永5年(1708)に造営されている。神域の杜は「磐手の森」と称する萩と藤の名所であったそう(住吉大社HPより)。境内にある井戸は「玉の井」といい、海幸山幸の神話で知られる山幸彦が海の神の宮で大綿津見大神から授かった塩満珠を沈めた場所であるとか。ちなみに、延喜式内社。
なにげに想像が大海のように広がってゆく、素晴らしい場所ではないか! シンプルにそう思った。
が・・・それにしても人の姿がない。南小門を出た場所は住吉大社の駐車場で、車はほぼ満車。なのに、南小門をくぐる人は皆無だ。住吉大社による紹介では、摂社の中でも最も社格が高く、住吉の別宮、住吉の宗社と称えられ、古代の祭祀においても重要視された。とある程なのに。
供物は毎日、住吉大社の神職により供えられているそうだが、社殿と北小門の間の茂みには崩れ落ちた燈籠の上部がごろん。それも複数。とてもじゃないが、大切な場所とされているのかどうか、と考えてしまう。
想像をたくましくしてしまった、境内にあるもうひとつの摂社。
社殿の南側、南小門の手前にもう三座の社殿が見えた。「志賀神社」とある。志賀神社といえば、本社は福岡県・志賀島にある志賀海神社だ。綿津見(海神)三神を祀る志賀海神社と同じく、こちらも綿津見三神を奉じていた。
大海神社のご祭神は豊玉彦命と豊玉姫命。共に海神の神。かつて大海神社西門の先は崖で、その奥には海が広がっていたという。ゆえに海神を祀るのか。綿津見の神は神代のこと、住吉の神は神功皇后年代、つまちり人の代。
勝手に考えることが許されるならば、ヤマト王権成立の過程で、この地にいた海神を祀る人々が王権の支配下に置かれ、氏神も列せられることになってしまった、か。
それゆえ、灯籠が崩れ置かれたままなのか。
古社を訪ねることは、この国の成り立ちに思いを馳せられる、浪漫あふれる時間となる。そのような人がもっと訪れるようになり、社殿が賑わうと、灯籠は元に戻るのだろうか。
このように、見過ごされている古社はこの国に数多ある。それらはこのまま朽ちていくのか。想像の波はなかなか引かない。思いの終着地が古社の将来であるならば、それそれは、残念な話である。
大海神社
大阪府大阪市住吉区住吉2丁目