家があり、木が植わり、田んぼがあった。
岐阜県の飛騨山地から発し、富山県を流れ日本海へと豊かな水を注ぐ庄川。その富山県側の平野部には庄川扇状地が広がっており、富山県内有数の穀倉地帯を形成している。
扇状地の中央部は砺波平野。ここに「散居村」と呼ばれる一帯がある。
「散居村」とは、広い土地に民家がポツリ、ポツリとある、空から見るとまさに点在という言葉がふさわしいような、集落だ。
地元の人に聞いた話だと、砺波平野の散居村は戦国時代後半あたりからできはじめた。
平野に家を建て、家の周りを耕して田にした。
しかしここは北陸。厳しい冬の風から家屋を守るため、家防風林とするために周りに木を植えた。それが現在、独特な景観を形成している。
家の周りに植えた木は屋敷林、富山ではカイニョと呼ばれ、木の剪定枝は風呂屋町地の燃料として使い、木材は家屋の増築や家具づくりなどに使われてきたという。
また植えられる木には栗や柿などもあり、食料調達も兼ねていた。
散居村の家々はそれぞれがとても立派だし、周りの木々もしっかり育っている。それでいてどこかおっとりとした出で立ちが、日射しの和らいでいる日に訪れると、どこか牧歌的でもある。
「このあたりでは、家は三代で建つと言われるんですよ。初代が家を建て、木を植え、二代目が木を育て、三代目でその木を建材にして家を増築してきたんです」
そんな話を聞き、この土地の時の捉え方に感心した。
冬の季節風が、独自の家の造りも生み出した
カイニョに囲まれた散居村の家々。車で訪れたのだが、車窓から見るそれらは、不思議と同じような形の家が多い気がした。
建売住宅ではないのに、どこも似ている。「それはアズマダチの家だからですよ」と。
砺波平野に吹く冬の季節風は、とにかく冷たい。その風は南西方面から吹いてくるため、そちら側にカイニョの木々を多くして、反対側に玄関を設ける。つまり東向きに玄関のある家だからアズマ(東)ダチ。
なるほど。土地ならでは、だ。
ちなみに、このような散居村は日本特有の集落の姿ではなく、ヨーロッパの国々にも北アフリカにも、アジア諸国にもある。そしてそれぞれに、地域性を感じられる景観となっているよう。
そのような話を聞いていると、結局人間という生き物は細胞の奥底で太古の情報を共有できているのではないか、なんて想像してしまう。
真宗王国であったことも、関係するのか。
アズマダチの家々はある程度造りが決まっている。
まず玄関。富山では玄関という空間をとても大事に考えてきたそうで、とてもゆったりとしている。また広い土間、囲炉裏の間など、人々の団らんのための空間が、家の中各所にある。
特筆すべきは、それぞれの部屋の間仕切りを外すと、広大な広間となることだと聞いた。
これは、ひとつには報恩講を家庭で行う風習があったことも関係しているとか。
富山県は北陸の中でも特に浄土真宗王国と呼ばれてきた。室町時代に本願寺第八代蓮如上人が福井県の吉崎を拠点に布教活動を行ったことがきっかけで、富山県でも浄土真宗門徒が多い。
そして、お寺の報恩講に参加するだけでなく、家庭で親族を集めて報恩講をおこなったりもしてきた。そのため、大人数が集まることのできる造りになったようだ。
散居村のカイニョの手入れを地域の人達で行ったり、誰かの家の報恩講に集ったり。
アズマダチの家やカイニョは少しずつ減って来ていると聞いたが、それでも集落としてのまとまりは、今も生きているようで、ポツリポツリと美しく家が建つ平野の田んぼ道を歩いて、なんだかにんまりとするのだった。