日常のとなり。

霊菓を祖に持つ下津のみかん。

代々、橙、不老不死。

 

新年を迎えるにあたり、鏡餅を飾る。近年は機械づきの餅と樹脂製のみかんをセットにした小さなものがスーパーなどで売られ、マンションではその方が便利なのだけれど、やはり、年の瀬近くについた餅に飾りを施し、しっかと飾りたいものだ。
鏡餅の頂上に飾るのは、小みかんを使う場合もあるが、本来は橙だそう。橙=代々、つまり子孫繁栄とか家が長く続くとか、そんな縁起の良い語呂合わせから来ているとか。

その橙。日本に入ってきたのは、記紀によると第11代垂仁天皇の御代のあとあたり。
垂仁天皇には田道間守(たぢまのもり)という部下がおり、彼は天皇の勅命を受け、不老不死の霊菓とされる伝説の「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を探す旅に出る。国内はおろか外国まで足を延ばし、果ては常世の国にまで霊菓を探して向かった。
やがて10年の時を経て、遂に田道間守は非時香菓を見つけ、天皇に喜んでもらおうと急ぎ都へ戻った。ところが垂仁天皇はすでに崩御されたあとで、田道間守は泣き崩れ、亡くなってしまう。
非時香菓とは季節を選ばずいつでも素晴らしい香りがする果実という意味で、現代の橘のことだと言われる。

 

霊菓の子孫が、名産になった。

田道間守が持ち帰った非時香菓の樹木は、和歌山県海南市下津町の丘に移植されたと伝わる。その地は「六本樹の丘」として下津町のみかん山を見渡せる場所に今もあり、そこから10分ほど下った場所には、田道間守を祀る橘本神社。
周囲の山の斜面は、ほぼみかんの樹。花の咲く頃にはとても良い香りに包まれ、樹木が育つ頃には濃い緑に覆われ、冬が近付くと橙色に染まる。
このあたりでみかんの栽培が始まったのは、紀州徳川藩初代藩主頼宣公の頃。頼宣公は紀州に入り、各地を視察するのだが、下津のあたりの山がちな地形を見て、海風の当たるこのあたりではみかんが育ちやすいだろう、と栽培を指示したそう。
田道間守が橙(もしくはその祖)を持ち帰ってからずいぶんと時を経ているが、その間に品種改良が何度も行われ、すでにみかんが誕生していた。これが現代の「下津のみかん」。
近年のみかんがやたらと甘いものが増えた。甘いだけのものが増えた、とも言えるが、「下津のみかん」は峻烈な酸味のあとにしっかりと甘さが来る、豊かな味わいが特徴。
和歌山のみかんといえば有田みかんが有名だが、下津はその隣町。そこにこそ、本来に近いみかんが今も、ある。

 

マチュピチュのようだ、と言った。

「六本樹の丘」から見えたみかん山の方へ、少し向かってみた。道は細い。山の斜面を縫うように細道が続き、沿道に集落が点在する。さらに道を進むと、やがて集落は途絶え、遠近感がぼやけてしまうような、山の景色が開けてくる。
段々畑のように山肌にひろがるみかん園、多くは平たい石を何層も積み上げてつくる石垣に支えられている。その無骨な景観をみかん園の主人は「マチュピチュのようだ」と言った。確かに、見えないこともない、ような。

訪れたのはみかんの収穫も終わってしばらくのことである。
日本農業遺産に「下津蔵出しみかんシステム」が認定されているが、これはみかん園に設置された土蔵でしばらくみかんを寝かせ、甘みの増した頃にみかんを出荷する下津町独自の熟成方法だ。
出会った農園主にみかんをいただく。
小ぶりだが、皮をむいた瞬間に放たれる香り、果肉の旨み、どちらも、記憶にしっかりと刻まれた。

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