今出川通を西へ歩く。
京都市営地下鉄今出川駅で地上へ出て、そこから北野天満宮へ向かう。
4番出口から出たので、少し南の交差点を右折する。
今出川通はなんとなく庶民的な香りのする道で、駅のある交差点あたりは、
京都御苑の北側に同社社大学、同志社女子大学があるため、若者の姿が多い。
歩道がそんなに広くはないが、平日とあってすれ違う人もまばら。歩いていこう。
駅のある烏丸今出川交差点から北野天満宮までは、約2キロ。30分ほど歩けば到着できる。
堀川通を渡る手前に、スポーツの神様とされる白峯神宮。
通りを超えると、京菓子の銘店である鶴屋吉信の本店。
このあたりから街は、少し静かになっていく。
智恵光院通、浄福寺通を過ぎ、しばらく歩くと「禁裏道場蹟」の碑が見えてきた。
このあたりは町名を般舟院前町といい、かつて般舟三昧院があったところだ。
般舟三昧院は、伏見・指月の里に後土御門天皇が建立した寺院だが、
豊臣秀吉の伏見築城に際し、この地へ移された。
明治時代になり、皇室からの下付金がなくなると途端に衰退してしまう。
寺院はもうなく、新たに小さなお堂が立っている。
隣接地には後土御門天皇、後花園天皇など皇族の分骨所である般舟院陵がある。
大茶湯を前に茶を欲しがった秀吉、白湯ばかりを出す僧侶。
般舟院陵を過ぎ、千本通を越えて少し進んだあたりに、浄土院がある。
『豊臣秀吉が北野大茶会の途次、この寺に立ち寄り茶を所望したところ、住持が茶の湯に未熟なために白湯ばかり供するので、秀吉はますます茶を要求しました。そのため湯沢山(たくさん)、茶くれん寺という異名がつけられたといいます』(上京区役所ウェブサイト、上京区の史蹟百選より)
なんとも痛快な逸話だ。その時の秀吉の顔を想像してみると、笑みがこぼれる。
住持は、どんな気持ちだったのだろうか。
北野大茶会は、正しくは北野大茶湯といい、
天正15年(1587)旧暦10月1日に、北野天満宮拝殿と松原一帯で催された、
秀吉企画・演出(一節には演出は千利休という話も)の大茶会だ。
天正13年(1585)に関白となったことを受けて開いた「禁中茶会」、
翌年に太政大臣となったことを受けて正月に開催した「大坂城茶会」に続く、三度目の茶会。
過去2回とは趣の異なるもので、過去最大規模での開催だった。
参加に際しては「身分上下の別なく、数寄者ならば手持ちの道具を持参して参加するように。日本だけでなく唐国の者までも参加してよい、道具や茶のない者はこがし(米を炒って粉にしたもの)でもよし」といった御触書を立て札にして告知し、公家、武家、民衆が入り交じって参加する、前例のないものだったという。
もっとも、一番の目的は自身の権威を示すことであったはずで、
秀吉は当時の天満宮拝殿に、本殿前に屏風を立てて空間を仕切り、
そこに複数の茶席を設え、千宗易(利休)、津田宗及、今井宗久、そして秀吉が茶を点てた。
秀吉は自身専用の黄金の茶室で茶を振る舞ったようだ。
4人で1日に茶を振る舞った数は、803人(もっと多いという説も)。
当初の予定では10日間に渡って開催するはずだったので、これが毎日続いていたらと思うと、頭が下がる。
が、実際は2日目の中止が初日夕刻に発表されて以後、再開なく終わった。
浄土院から北野天満宮への向かう間、秀吉はきっとワクワクしていたのだろうな、
そんなことを考えながら、上七軒を超え、北野天満宮へ着いた。
子を思う母は木の陰から、息子を今も見守るのだった。
北野天満宮、そのものについては今さら言葉を重ねるまでもない。菅原道真公を祀る天満宮の総本社だ。
その二の鳥居近くの参道左側に「伴氏社」がある。
菅原道真公の母を祀った小さな社だ。道真公の母は大伴氏の出であることから、そう称されている。
社の前にある鳥居は京都三珍鳥居のひとつともされ、台座に蓮弁が刻まれている。
祖父の代から文人家系であった道真公は、厳しく育てられたに違いない。
その息子の成長を、母は温かく見守った。
ゆえにここのご神徳は、「子どもの成長と学業成就を守護」(案内板より)。
社の横の木の枝が顔を隠すように出ており、終通り過ぎてしまいそうだが、
息子が祀られる天満宮を控えめに見守っているようで、じーんと来るものがあるのだった。
子の受験に際して多くの親が北野天満宮へ詣でるが、父母はぜひ、伴氏社へも、参ってほしいものである。