時代は平成になっていた。それなのにまだ、いた。
正確にはいつだったか思い出せないが、平成の前半頃、人に会うために、筑豊本線折尾駅に降り立ったことがある。
その人とはたいした話ができず、なんとなくモヤモヤした心持ちで帰路のホームに立ち、博多方面の電車を待つことにした。
昼食をとり損ねていたため、腹は減っていた。
しかし、駅の周りにこれといって目を留める飲食店もなかったため、これから博多へ向かい、昼を兼ねた早めの夕食でも、と思ったのだ。
そこへやって来たのが、駅弁の立売だった。おじさんは誰も彼もを受け入れるかのような笑顔。
そういえば小さな頃は、汽車の窓越しに買う駅弁が列車に乗る最大の楽しみだったっけ。
水筒型の容器に入った緑茶を、ばあちゃんはおいしそうに飲んでいたなァ。
ふとそんなことを想いだして、懐かしく、私も立売のおじさんから「かしわめし」を買った。
(大)で。
シンプルは、素朴ではなく素直なのだと思う。
「かしわめし」。
九州や山口県では鶏肉を米と一緒に炊き込んだものや、鶏だしで焚いたご飯の上に甘辛く炊いた鶏肉のそぼろや端切れ肉をのせたものを、かしわ飯と言った。少年時代には、好んで食べたものだ。
それとは少し違うが、折尾駅で購入した東筑軒の「かしわめし」は、
鶏だし(スープ)で炊いたご飯の上に鶏肉のそぼろ、錦糸卵、刻み海苔がボーダーラインで盛りつけられている。
添え物は昆布の佃煮、奈良漬け、豆。
電車を乗り過ごすことに決め、その場で食べた。
鶏肉のそぼろは、少々硬めだった。しかしそれが、モヤモヤを噛みしめているようで、旨かった。
それ以上に、ご飯がおいしかった。刻み海苔とこのご飯で十分な満足感をいただけるはずだ。
後日調べてみると、かしわめし弁当を製造している会社は複数あり、東筑軒は老舗の類に入る。
創業は大正10年(1921)で、100年超、このかしわめしは変わらずにあるのだった。
近年の駅弁のように、色とりどり、味いろいろの具が盛りだくさんに詰まっているわけではない。
直球のシンプルさは、素朴というよりも、おいしいからこその、素直さ。
「そう、これ」と言える味が、待っていた喜び。
あれから10数年が経過し、折尾駅までは行けなかったが、福岡でまた、かしわめしを買った。
新幹線が発車するまで待ち、動き出したらすぐに、テーブルで折を開く。
思い出の中の弁当の姿がそこにあり、同じ味が、口に入る。
「そう、これ」。出てきた言葉はこれだけ。
感慨に浸るでもなく、ただただ、食べ進む。でも、嬉しかった。
線路が近くにある街で暮らしたわけではない私にとって、鉄道に乗ることは、旅だった。
その途上で食べた駅弁や、宿の食事は、その前後の思い出とともに記憶に刻まれていて、
つまり「かしわめし」を食べることは平成のいつぞやの記憶に辿り着き、
その時感じた少年時代にまで、一気に自分を連れて行ってくれる思い出の旅だったのだ。
気持ちが昂ぶっていたのか車両の揺れなのか、写真が微かに揺れていた。