札所が動くなんて?
篠栗四国八十八ヶ所霊場の歴史を調べてみると、誕生した安政2年(1855)当時は、ほとんどの札所は一般農家の人々によって守られていた。篠栗に息づく弘法大師のご利益を信仰する心の強さから、札所を引き受け、祠堂を世話したのだ。
その後、遍路が増えるに従って、遍路から求められて一夜の宿を貸すうちに宿の経営を始める者、食事を提供するうちに食堂を経営するようになったもの、まぁ、いろいろ。現在も札所のいくつかを旅館や飲食店が守っている篠栗四国八十八ヶ所霊場の特異性は、創設時から始まっていたのだった。
また、現在の札所のいくつかは、誕生時の場所とは異なる所にある、というのもこの霊場のおもしろさ。理由にはいろいろあるようで、札所を守っていたのが一般農家であるがゆえ、その家が何らかの理由で他所に移ったり、住人がいなくなると、札所の権利を引き継ぐ人が出てきて、祠堂はそのたび、移転した。
88の札所のうち、移動を経験している札所は41ヶ所もあるという。
移動したとはいえ、霊場そのものが篠栗町内に存在することには変わりない。人々が代々守り続けているからこそ移動も起こるわけで、そんな特異性を想像しながら、遍路道をてくてく歩いてみる。
33という不思議
ところで。
四国八十八ヶ所霊場をはじめ、全国に多々ある霊場というものは、おおよそ1番から順を追って巡っていくもの。篠栗四国八十八ヶ所霊場でもそうだと信じて疑わなかったのだが、現地で霊場巡りの地図を入手すると、「打ち始め(八十八ヶ所霊場では、札所巡りを“打つ”という)」は33番札所本明院であった。
あれれ? では1番札所の南蔵院あたりはどうなっているのだ、と地図を広げると、南蔵院に一番近い次の札所は31番札所の城戸文殊院、次が3番札所の城戸釈迦堂。2番札所は・・・と探してみると、近いエリアではあるものの、歩くとそこそこある。
はてさて、と調べてみると、先述のように祠堂の移動も関係しているが、明治37年(1904)に博多駅隣の吉塚駅から篠栗駅間の国鉄篠栗線が開通したことで、駅に始まり駅で終わる参拝順路ができたそうだ。
すべては、地域あってこその霊場、ということか。
ちなみに「打ち始め」の33番札所本明院は駅の北側、「打ち納め」は79番札所補陀洛寺で、駅の南側。つまり駅北側エリアの札所を順に巡り、駅の南側の札所を巡って終えるのだ。
篠栗四国八十八ヶ所霊場は、すべて参拝し終えるのに3泊4日が必要だと言われる。札所は篠栗町内で大きく3つのエリアに分散していて、篠栗町中心部〜呑山、1番札所南蔵院周辺、若杉山がある。道も平坦だったりアップダウンがあったり。景色も起伏も変化に富んでいて、歩けば確かに4日かかりそう。
ただ、最近はこの巡礼道を1日で回ろうという強者もいるそうで、地元のランニングチーム「SRW88」では、「篠栗八十八ヶ所霊場1日参拝マラソン」を開催しているそうだ。
時代とともに巡礼道も方法も変わる。霊場が生きているのだと感じる。