日常のとなり。

御蔵前の船着き場。忘れられそうな、港の物語。

石段組の船着き場跡へ。

 

川と鉄橋と夕日。その3セットを眺めたくてぶらぶらとする。ここは熊本県川尻町。熊本県と宮崎県の県境辺りにはじまり、熊本平野の南部を流れて有明海へと豊かな水を運ぶ緑川。この川を目指して、市内から加勢川が流れてくる。合流地点あたりにある古い町が川尻だ。
鎌倉時代に地頭の河尻氏が緑川の蛇行部分を天然の港として整備したことで、町としての発展が始まった。加藤清正はそこを軍港として整備し、朝鮮へもここから出兵。加藤家に代わり入国した細川家はさらに整備をすすめ、重要拠点として町奉行所や、現在でいう税関も置いた。
税関が置かれたのは、中世からすでに海外交易が行われており、物資の往来が頻繁だったこと、緑川流域の年貢米の集積地だったこと、などによる。

薩摩街道の要衝だったこともあり、江戸時代にはかなり繁栄していたようだ。河口には長さ150メートルという立派な石段のある船着き場が整備され、年貢米だけでなく年貢米を納入した船が川尻でさまざまな品を買い求めるため、商業も発展したという。細川藩の米蔵の前にある船着き場は、「御蔵前の船着き場」と呼ばれた。
現在残っている船着き場は慶長年間に整備されたもの。そもそもこの船着き場が石段となったのは、河口のため潮の満ち引きの影響があるから。石段組にしておけば干満の水位増減に関係なく荷物の積み下ろしができる。長くしておけば大型船も停泊できる。

川尻はまた、室町時代から鍛冶屋町でもあった。もともとは数十軒の鍛冶屋が農業に使う鍬や鎌、包丁をつくっていたが、鎌倉時代になると平時は包丁鍛冶、戦争が始まると武具鍛冶へ。やがて江戸時代に肥後藩の造船所が川尻にできると、鍛治屋町もさらに賑わった。とはいえ戦のなくなった江戸時代。鍛冶屋の人々は刃物を近隣の町へ売り歩くようになる。やがて移動型の鍛冶屋が誕生し、その歴史は昭和初期まで続いた。
中世から近世までの川尻は、士農工商すべてが整った町だった。

 

 

変遷を見守る、名残の恵比寿さま。

 

船着き場の上手に、小さな祠が今も立っている。ご祭神は恵比寿さま。町の調査によると、恵比寿さまの側面には天保六年(1835)の銘。年貢米の集積、商工業の発展、宿場町としての賑わい。繁栄を極めていた江戸末期からここで毎日夕日を眺めていらっしゃるのだ。
昭和の中頃までは、毎年夏になると「えびす祭り」が行われ、祠は小さいながらも周辺に多くの露点が並び、参拝客で賑わったという。
が、その賑わいは風に吹かれて去って行った。

往時を唯一感じさせてくれるのは、夏。川尻町では細川家の時代から精霊流しが行われてきたが、これは現在も8月15日の恒例行事として実施されており、船着き場は昭和に入り役目を終えたが、この精霊流しの日には、港の賑わいを彷彿とさせるほど、多くの人が集まる。周辺の旧川尻町を中心に精霊流しの日は地域の人で賑わう。この町への誇りが、覗ける瞬間だろう。

 

 

伝統をつなぐ、地域の姿。

 

町への誇りといえば、川尻町には、町の発展の礎を築いた河尻氏により勧進された河尻神宮がある。河尻氏没落後に弱体化した時期があったものの、加藤清正により現在の地に遷宮されてからは、地域の依り代的存在となった。春と秋に例大祭が催されるが、秋季大祭は特に見ものと言われる。
能楽奉納にはじまり、献幣祭、御夜神楽、飾り馬、下がり馬、提灯行列、風流舞、獅子舞、子供神輿、流鏑馬と、加藤清正の時代から受け継がれてきた奉納行事が数日にわたって続く。町内会に子供会、地域総出による大祭だ。

秋季大祭の後半には、神輿と共に御夜詣りが行われる。その道すがらには、白壁の建物もちらほら。廻船問屋にはじまり、慶応3年(1867)からは酒造業へ転身した瑞鷹酒造の蔵、西南戦争の際には薩摩郡の本陣が置かれた住宅、昭和初期の建築様式を伝える邸宅など、江戸から昭和にいたる変遷を、建物でも辿れるのだ。
となれば行事のない静かな週末にでも、と足を向けるが、町を楽しむ、外からの人の姿はほとんどない。この町には歴史も伝統も芸能も、食も、時代を超えて生きているというのに。

御蔵前の船着き場に、日没が近づいた。
橙色に染まり始める川面、その上の鉄橋を、九州新幹線が走り抜けていく。隣のオレンジ色の鉄橋には、熊本と三角を結ぶ観光列車。
夕景に目をやりながら、この町を通り過ぎないでほしいナァ、とつぶやく。

 

御蔵前の船着き場
熊本県熊本市南区川尻町

 

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