日常のとなり。

生死の狭間、東山。<1>

いちいち引っかかってばかり。前に進めぬ清水坂。

最初から回りくどいが、世界の東山へ行くときは、京阪清水五条駅を出て五条通から一度鴨川を越え、木屋町通りを通って松原橋を渡って東へ行く。
現在は松原通と呼ばれるこの道が好きだからだ。
京に都が誕生して豊臣秀吉が五条橋を現在掛け替えるまでは、ここが五条通で、現在の木屋町通りは、そのころ川の中だった。
寛文10年の鴨川改修工事まで、鴨川の川幅は現在の河原町通まであったようで、旧五条通に架かっていた「五条橋」とは、中洲を挟んで東西2本の橋のことだった。「京の五条の橋の上〜♪」と歌われる牛若丸と弁慶の闘いは、西側の五条橋が舞台。
おまけついでに。
当時の中洲には、花山天皇の命で鴨川の治水を行った安倍晴明によって法城寺が建立され、いつしか京都最大の陰陽師の拠点となっていたという。寺には大黒天が祀られており、東山へ詣でる人は、大黒さんを拝んでから現在の松原通を歩き、八坂の塔から清水寺を目ざした。
寺は三条へ移転、大黒さんは清水寺で「出世大黒天」と呼ばれている。
当時中洲を拠点に活動していたのは陰陽師だけではなくて河原者などと呼ばれる人達もおり、彼らは五条橋の東詰めで勧進(物乞い)などをして暮らしていたという。このあたりは東山における信仰の重要な場所でもあった。

ここから先はあの世でした。と石碑は語る(と思う)。

なぜに現松原橋界隈、とりわけ東詰めあたりが信仰の重要な場所だったのか。これも知られた話だが、平安京に暮らす人々にとって、鴨川から東はあの世だったから。都の人々はだんだん都の中で死者を葬らなくなり、東山にあった鳥辺野へ運んでいたと言われるが、なかには面倒くさがる人もいたようで、川を越えたあたりに置いたり、河原に置いたり…。
鴨川東岸、現在の川端通りを越えてしばらく進んだら、その頃はちょこちょこ朽ち果てかけや、朽ち果て後の亡骸があったのだろう。そんなことを思うと、この地域に平家一門が六波羅なんて邸宅群を造っていたことが不思議だ…。
現代のように生と死がわかれておらず、死はいつも隣にあった時代だとはいえ、家の近所で人が死んでいるというのはちょっと、心中穏やかではない。

少し東へ行くと、松原通は大和大路通りと交差する。大和大路通りはその名の通り、大和(奈良)と京都を結んでいた街道。ここはギリギリ現世。
そのままさらに進むと、幽霊子育飴本舗があるT字路にさしかかるが、ここが生死の境界だった。
足元には「六道之辻」の石碑。
話だけ横道に逸れるが、この石碑の手前から六道珍皇寺の前あたりのブロックの住所表記は「轆轤(ろくろ)町」。江戸時代にこの名前になったそうで、それまでは髑髏町と呼ばれていたという話。しゃれこうべがそこかしこにあったから、髑髏の町ということのようで、江戸時代に入り、そんな不吉な名前じゃあまずかろう、と役人が町名変更を考えた。で、いきなりドラスティックに変更するのもどうかと(と考えたかは不明だが)、めでたく轆轤町に。漢字の画数の多さも似ている。

髑髏の町の清水坂。

元の道に戻る。清水坂と聞くと東大路通から清水寺へと続く長い坂道のことを思い浮かべるが、轆轤町が髑髏町だった頃には、松原通のその界隈を清水坂と言った。なんなら坂の中心は大和大路通りと松原通が交差するあたりで、周辺には「坂の者」と呼ばれる特殊な職業に従事する人々が暮らしていた。
特殊な業務とはそう、葬送である。いつの頃からか彼らはある一定の権限をもつようになり、江戸時代中盤の18世紀くらいまで、誕生から600年近くもその権限を行使してきた。
彼らは力のある寺社ともつながり、八坂神社の境内清掃などに従事した犬神人のように、重宝される人々も出てきた。この犬神人は、祇園祭の神幸列の先導も担当する。これは行列の先頭で道の穢れを清めるためだとか。
葬送を担当した坂の者は、その職種からいつしか穢れを祓う特殊な人々となった。つながった寺社によっては、兵隊のように使われる場合もあったようだが。

おもかげ探しが、清水坂の楽しみ方。

先述した「六道之辻」はわかりやすいが、松原通を東山へ急ぎ足で進むと、町のかつての姿はなかなか見えてこない。それでもいいのかもしれない。なにせこの道は、キョロキョロし甲斐のある道だ。
「六道之辻」から少し歩いて六道珍皇寺の門前に「六道の辻」と刻まれた立派な石碑があってオイオイ、となるし、大和大路通の手前で琵琶湖の魚を売る店、京都唯一の種麹店も並ぶ。
本稿で何度も「六道」と出てくるが、六道感を味わうなら、夏だ。お盆の精霊迎え「六道まいり」が毎年8月7日〜10日の4日間開催され、期間中は六道珍皇寺に多くの人々が参る姿を見られる。また「六道之辻」にある西福寺では六道すべてが描かれた六道絵や檀林皇后が死して朽ちてゆく姿を描いた檀林皇后九相図も見られる。
と書くと観光案内になってしまうが、これらは夏の風物詩として体験してほしいのではなく、この町に確かにあった、生と死の記録に触れられるから。
京都は伝統寺院が多い。しかし、弔ってきた歴史と記憶が残るはずのそれらの場所では、生と死の記録はもはやあまり感じられない。
が、そこを、創造力を膨らませて感じるのが京の町の価値のひとつだと言っておきたい。

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