旅の味

精進と言わずとも、心整う薬草料理。

薬草のまち宇陀の、薬草(料理)の寺。

 

奈良県宇陀市を含む地域は、日本書紀に薬狩の記載があるほど、古くから薬草の供給地として知られていた。
やがて江戸時代になり、幕府から採薬師が宇陀を訪れた際、その見習いとして出仕した森野賽郭(通貞)は、のちに幕府から薬草の種苗をもらい、それらと自身が採取した薬草類を自宅裏で栽培しはじめる。これが森野薬園となるのだが、この頃の日本は諸藩で薬園を設置する動きがあり、ほぼ全国で、官設・私設薬園が開かれたという。
明治維新でそのほとんどが閉鎖されてしまったが、森野薬園は残った。

ところで、江戸時代の宇陀松山藩を治めていたのは織田家。関ヶ原の戦いののちに織田信長の次男・信雄が入封し、以後、廃藩になるまで五代続く。二代目高長は、聖徳太子が蘇我馬子に命じてこの地に建立させたと伝わる大願寺の本尊・十一面観音菩薩への信仰が篤く、大願寺を織田家の祈願所とした。

そしてこのことは、現代になり、当寺での薬草料理誕生へとつながっていく。

 

存続のために生まれた料理は、人々を惹きつけた。

 

真言宗御室派 薩埵山大願寺は、古くから薬草を育てていたわけではない。江戸時代に織田家の祈願所となったことで、寺は檀家を抱えることができなかった。そのため明治維新からこれまで、徐々に寺を存続させるための術を考える必要に迫られるように。
50年ほど前には宿坊を開設。薬草は境内に育っていた。畑を耕し、野菜も育てた。そうして宿の食事として、薬草料理を提供するようになった。宿坊はもうないが、薬草料理は残り、日々磨きをかけ、いつしか団体客が訪れるほどの名物となる。

コロナ禍での休業を経て再開した当寺の薬草料理をいただきに出かけた。
苔むした石段と青紅葉の山門を抜け、庫裡から続く食事棟へ。熱々のやかんから薬草茶を注ぎ、料理を待つ。この茶はアマチャヅル、ドクダミ、ハトムギ、クコなど10種の薬草でつくられているそうだが、まるで苦くない。むしろコクがあり、甘みがあり、それでいてすっきりしている。

箸袋を開くと、そこには本日の献立が。見比べつつ、運ばれてきた皿に向き合う。
前菜は南瓜とトマトの市松羹、酵素玄米、豆腐田楽、金柑と黒豆の翡翠寄せ、牛蒡酢漬け。
胡麻豆腐に、菊芋、人参、牛蒡の炒め煮、しめじとコンニャクなどが入った白和え、三種盛りは菊花・紅花・ヤブカンソウの花の酢の物、大豆肉と根菜、そして金針菜とクコの実。
これらを食べ終えると、吉野本葛の刺身が出てきた。練り方を工夫しているのだろうか、葛餅のようではなく、白イカに近い食感だ。
ここまででもなかなかに食べ応え、見応えがあるのだが(盛り付けも美しいのだ)、料理はまだまだ続く。

後半戦は飛竜頭のあんかけのあと、天麩羅としてヨモギ、ドクダミ、ユキノシタ、ミント、ナツメなど。ナツメの不思議な甘さ、ミントは天麩羅にすると旨い!などと感嘆していると、次に出てきたのは真っ黒で艶やかな黒米だった。
黒米のご飯というと、多くは白米に何割か黒米を混ぜて炊く。しかし当寺では、100%。本当に真っ黒。
舞茸とヨモギ麩、三つ葉の吸い物ですっきりしたあとは、ドクダミのシャーベット、自家製甘酒、羊羹3種のデザートでおしまい。

ひとつ一つ、楽しくて、驚いて、おいしくて、うれしくて、実にエンターテインメント性のある食事だった。

 

食べることの基本とは。

 

さて食後、薬草茶をまだまだいただいていると、寺の方が現れた。
これは精進料理なのかと尋ねると、いやいや、薬草料理ですと答える。
手の届く範囲で自然に育っているものを、朝摘んで、その日に提供する。米も野菜も自分たちで育て、ちゃん出自がわかっているものだから自信を持って出せる。「食事とは、そんなものではないでしょうかね」と寺の人。

社会がまた動き出した今、今後は以前のように多くの人を迎えるのかと聞くと、それはないという。
人数を減らす分、食事に力を注ぐのだ、と。なるほど、再訪に胸膨らむことばであった。

現代の精進料理は、鎌倉時代に道元が著した典座教訓が元になっていると言われる。そこには食を大切にするための多くのことが記されているが、食材に敬意を払う、五法五色を意識する、素材の旬を大切にする、手づくりにこだわる、などなど、大願寺の薬草料理に通じるところは多々。薬草料理を一度食べたからといって健康になるわけではないが、健康や食事を考えるきっかけになるでしょう。そんな言葉を最後にいただいたが、これは我々への大いなる問い。

土産の言葉は、明日への道しるべ。

 

 

真言宗御室派 薩埵山大願寺
奈良県宇陀市大宇陀拾生736

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