日常のとなり。

暮らしのための2.7キロ。紀州鉄道

スロウでのどかな、市民の足。

 

始発駅から終点までの距離2.7キロ、所要時間はわずか8分。

紀州鉄道は、単独路線としては日本で市番短い鉄道。住宅の間を建物スレスレに毎日走る。時速は20キロほど。ローカルであり、スロウである。もちろん佇まいも。
車両は一両、のどかな景色、ローカル感満載といった理由から鉄道ファンに知られる存在だが、いわゆる観光鉄道ではない。はじまりから今も、地域の人々の暮らしの足だ。
始発となる御坊駅に独自の駅舎はなく、JR御坊駅のホームを借りている。出発は0番線、そこから終点の西御坊駅までは4駅。沿線には中学・高校があり、御坊市役所もある。
西御坊駅から少し東へ歩くと、御坊さんと親しまれる本願寺日高別院を中心に栄えたかつての寺内町が、その面影を残していまだある。ちなみに本願寺日高別院が御坊さんと呼ばれたことから、このまちの名は御坊となった。

 

発端は、暮らす人々の願いだった。

 

江戸時代に寺内町が形成されて以降、町には多くの商人が集まり、大変賑わうようになった。
また、町を流れる日高川の河口がすぐ近くにあるのだが、その賑わいに伴い、寺内町に並んだ問屋へ物資を運ぶ廻船業も盛んになったという。それだけでなく、廻船は御坊や近隣の特産品を各地へ運ぶ大きな力となった。江戸期の御坊は、近隣に比べ比較的裕福だったようだ。

やがて時代は移り、輸送の手段に陸上の鉄道が加わる。

大正時代に入ると、現在のJR紀勢本線の建設工事が東西両方向からはじまり、和歌山の沿岸地域は、この新路線が和歌山駅とつながり、阪神間へと物資を運べることに大きく期待した。しかし、新設されることとなった国鉄御坊駅は、御坊の中心地から大きくはずれている。物資の輸送が地域の発展にとって重要であることをすでに知っていた寺内町をはじめ御坊のまちの人々は、なんとか新路線とまちをつなげられないかと思案し(たと思う)、有志が資金を出し合い、鉄道会社を設立することに。それが紀州鉄道の前身である御坊臨海鉄道。昭和3年(1928)のことだった。
始まった頃は物資の輸送が主だったが、昭和6年(1931)に紀州鉄道となると、材木やみかんといった沿線地域の特産に混じり、旅客も運ぶようになった。その頃は河口近くに日高川駅があったのだが、貨物輸送が減少していく時代の流れに合わさるように、平成元年、西御坊―日高川駅間は廃線となった。

まちの人の思いについての話はもうひとつ。

始発の御坊を出て最初の駅・学門駅は、昭和54年(1979)に誕生した、まだ新しい駅。かつてはここに中学前という別の駅があったのだが、昭和16年(1941)に戦争の影響で廃駅となってしまった。しかし、駅の隣には高校があり、学校としてはここに駅がないのはどうしても困る、と強く要請し、長い交渉の末、なんと駅が復活。それが学門駅である。

距離は短くても、込めたる思いは濃いのだ。

 

地域のために、生き続けねばならぬ。

 

日本は交通状況がすっかり発達した。
電車はほぼ遅延なく走るし、遅延しても代替交通手段が程なく出てくる。高速道路は国の端の方までつながっているし、海も空も、交通手段がある。便利な国だ。とはいえ、地方では人口減。せっかくの交通網も、利用者が少ないのであれば各交通手段は運行減、はたまた廃止となる。

紀州鉄道も例外ではない。利用のピークは昭和30年代、以後緩やかに減り続け、現在はピーク時の1/5弱となっている。和歌山県は車での移動が便利な地域で、そのために交通網はいまだ新たな整備が続いているほど。そこに人口減が加わってのことだ。
そのため同鉄道は、学門駅の名前にあやかった、祈願済みの「学問の入場券」を学業成就御守として販売したり、イベント列車の運行や鉄道イベントの開催を通して、利用者を増やそうとしている。
それもこれも、地域の人々の足を守るため。

終着点は、トタン壁の西御坊駅。平成30年(2018)に完全無人化駅となったが、いつ訪れても清掃が行き届いている。天井こそベニアが貼り付けられてうらぶれた感じはするが、果ての地に来た感覚はない。
駅舎の石段を降りるとすぐに道路のため、ちょっと危なっかしいが、町の風景にキュッと収まっているその風貌も、なんだか愉快だ。
かつてその先へと続いていた方面は木柵で塞がれているが、さぁ歩こうと一歩を踏み出す気持ちになれる、清々しさを覚えた。

 

紀州鉄道西御坊駅
和歌山県御坊市薗

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