五穀豊穣を願い、地車が曳かれる秋。
だんじり。おもしろいことに、文字入力で「だんじり」と入力すると「地車」と変換される。「じぐるま」ではない。
大阪では10月に、だんじりがまちへ出る。岸和田が代表的な大阪南部では勇壮に曳き回し、大阪東部、いわゆる北河内では、練り歩く。
大阪の秋を代表する行事となっただんじりだが、起源は定かではない。名称の由来も諸説ある。各地に登場して秋の定番行事として地域が盛り上がるようになったのは江戸中期だ。当初は大阪中心部の、それも夏祭にお目見えしていた。
二棟造で車輪がついた地車は、淀川を往来していた御座船がモデルだとされている。当時のだんじりは現在見られるものとは違い、やや粗末なものだった。中央の小さな舞台では「にわか」と呼ばれる寸劇が披露され、お囃子とともに市中を曳き回っていた。
岸和田などでは現在、高速で山車を曳き回るが、そのようなスタイルになったのは道路が舗装されるようになった戦後という。砂利道や土の道と異なり、舗装道路なら木製車輪でも速く走れる、というわけ。大阪東部のだんじりは、ゆっくり進む。地域の人が後ろに並び、ついて歩く。早く進む方もゆっくり進む方も、交差点や曲がり角は見せ場だ。
「神様がいらっしゃるんで、丁寧に回ります。」
「だんじりを見に来ませんか?」と誘われた。大阪東部の大東市、御領地区で秋、3年ぶり(コロナ禍の間は中止となっていた)にだんじりを曳き回すという。滅多にない機会。もちろん二つ返事だ。
地車には構造の違いで上地車と下地車がある。上地車にはさらに細かな型の違いで、神戸型、岸和田型、堺型、住吉型、北河内型、石川型、大阪型、社殿型などにわかれる。近年では上地車と下地車のハイブリッドも登場しているそうで、さらに細かくわかれることとなる。大東市は北河内型。ほかの型よりも大きい。
御領のだんじりは、平成28年に新調された。それまでの地車は165年まちを曳行し、引退。新調された地車には鳳凰や源平合戦など多様な伝統的彫り物があり、まるで小さな社殿のようだ。地車も神輿も、神様が乗るという点は同じ。地車は神輿と違い、人も乗る。
大東市には全部で33台の地車があり、御領地車はそのひとつで、かつて地域内を縦横に走っていた水路の一部が残る菅原神社を出発し、東にある龗(おかみ)神社までの間を曳行する。
現地の道は結構狭い。ここを?と心配になるが、北河内型は走らないと聞き、安堵した。
「地車には神様がいらっしゃいますから、丁寧に扱うんですヮ」
菅原神社を出て、古い街並みの細い道を、地域の子供たちが前で綱を引きながら進む。沿道の家からは玄関先に人が出てきて、ほーっと見上げる人、祝儀を渡す人、顔見知りに声をかける人、それぞれ。
なんだかのんびりしているナァ、神様もさぞ、心地よく地車にゆられていらっしゃることだろうナ、なんて思いながら、そのあとをついて歩く。
おーたー、おーたー!
開高健の著作の話ではない。御領だんじりが交差点に差し掛かり、90度回転する時のかけ声だ。
交差点に差し掛かると、地車は一旦止まる。するとお囃子のリズムが早くなり、音量も大きくなる。その音の中で地車のお尻がぐっと上がった!
屋根の上の大工方が先端に赤旗をつけた棒を振りながら、「おーたー、おーたー!」。その声に呼応して地車の周りの男衆も「おーたー、おーたー!」。ほんの数秒で、地車は90度回った。
あとで聞いた話だが、御領だんじりの見せ場はこの旋回で、本来なら前を持ち上げて回るとのこと。近隣ではその回し方をするところがないので、これこそ御領だんじりの見せ場だが、いかんせん今年は3年ぶりのため、安全面を考えて後ろを上げたのだ、と。
それはそれは。では、来年の通常版も見に来なければ、ナ。
龗神社に着くと、地車を鳥居前に止め、男衆もついて歩いている地域の人も、一緒になって参拝。しばし休憩ののち、往路とは違うコースで菅原神社へと戻るのだった。
地車を小屋へ戻したあとの男衆の、満足げな顔! 達成感が満面の笑みから滲み出ていて、地域の人たちと境内のあちらこちらで感想を言い合っている。
出発前に地車のまわりではしゃいでいた子供たちも、まだいる。彼らはいつか自分たちも法被を着て地車を曳くとわかっている。
今回地車を曳いていたのは、20代から50代と見えた。普段は地元を離れていても、この日は戻って来るそうだ。祭があるところ、元気なところには、地域の人が必ず集まる。そこで世代間のつなぎも生まれる。
近年は「地域おこし」とか「地域活性」といったプロジェクトが盛んだが、まぁ、10年と続くものは少ない。そんなことより、祭をやろう。派手でなくてもいい、地域の人が集まりたい、と思える祭を。