日常のとなり。

多摩川近く。豊かな自然環境が映画を呼び寄せた、調布へ。

“土地”が“まち”へと変わっていく中で

 

大正2年(1913)に笹塚―調布間が開通した京王電気軌道(現在の京王線)は、大正4年(1915)に調布―新宿間も開通。東京都郊外で自然豊かな場所だった調布市は、この頃から行楽地として人気が出てきた。
ちなみに笹塚―調布間の開通に合わせ、鉄道未成区間であった調布駅から府中、国分駅で乗合バスが運行を開始している。これは東京発の乗合バスだった。

大正12年(1923)の関東大震災以後は、都心部から人々が移り住み、住宅地として注目されるようになる。
賑わいが形成された調布には、昭和8年(1933)に、調布市初の撮影所となる日本映画多摩川撮影所が誕生した。しかし翌年、日本映画は倒産。そこを、関東大震災で被災した向島撮影所に変わる撮影所の場所を探していた日活(日本活動写真)が買収し、同年に誕生したのが「日活多摩川撮影所」だ。
この頃の調布は、少し前の昭和2年(1927)、現在京王閣競輪場がある場所に、京王電気軌道がレジャー施設「京王閣」をオープンさせ、『東京の宝塚』と評されるほど人が訪れるようになっていた。追随するように、まちにはたくさんの店や飲食店ができたというから、相当な賑わいだったことだろう。

そこに新たな撮影所の誕生である。

調布市観光協会公式サイトによると、町日に撮影所ができたのは、時代劇・現代劇どちらの撮影にもふさわしい自然環境やフィルムの現像に欠かせない良質な地下水があった」から。
自然いっぱいだったのである。そんな中に誕生した巨大な施設は、京王閣と合わせ、多くの人の目を集めたことだろう。

 

撮影所が生まれたまちは、一気に映画の都へ

日活多摩川撮影所はその後、規模を拡大していく。現在KADOKAWA大映撮影所のある北東部一帯や西側は住宅地だが、戦前には撮影所だけでなく関係者の社宅まで整備され、当時は日活村(のちに大映村)と呼ばれていたそう。
その住宅地の一角の、小さな公園に立てられているのが、「調布映画発祥の碑」だ。

日本映画の全盛期といわれる昭和30年頃には、調布市の多摩川周辺で、戦前に日活などと合併したことで名前を変えた大映撮影所、日活が別の地に昭和29年(1954)に誕生させた東洋一の撮影所・日活撮影所、そして調布映画撮影所が、映画の撮影を行うほど、調布は映画色に染まる。「東洋のハリウッド」と呼ばれた。
銀幕のスターに駅や道端で会えることもあり、想像すると、暮らしているだけでワクワクしそうだ。
なお、この頃どれだけ日本人の娯楽に映画が溶け込んでいたかというと、昭和33年当時、日本の人口約9,200万人に対し、その年の年間観客動員数は11億3,000万人。
『浮雲』、『名探偵明智小五郎シリーズ』、『姿三四郎』など、国じゅうが映画に熱狂していたような時代だったのだろう。

 

「ゆかり」がつなぐ、外と内の関係を思う。

撮影所以外で映画に関係するところでは、石原プロダクションや水木プロダクションが今も調布にある。まちでは映画に関する催しも多い。

調布ではないが、映画にゆかりの地と聞くと、昭和〜平成にかけての映画の代表作でもある「男はつらいよ」を思わずにはいられない。
同作は、シリーズのロケ地になった地域が、現代も寅さんファンに愛されている。撮影当時の風景を未来へも残そうと、地域の人々が踏ん張っていたりもする。
映画はそれほどにまで、日本各地を輝かせてきたのだ。
映画だけではない。いわゆる「ゆかりの地」は、そこに暮らす人々にとっての誇りであろうし、外部の人とまちをつなぐ強く太い糸だと思う。

新たに外から人を呼び込むために、物語のない、もしくはやや強引な物語によって何かを設けるよりも、「ゆかり」はぐっと、自然な関係を築けるような気がする。

 

調布映画発祥の碑

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