旅の味

やや身を残し、甲羅の熱燗をつつーっと。菊一のかに面。

冬のはじまりは、そわそわする。

 

毎年11月初旬は、初デート前夜のように落ち着かなくなる。日本海の冬の味覚、松葉がに漁が始まるからだ。解禁日は11月6日。翌7日にはお店に並ぶ。

以前兵庫県北西端の町・浜坂で解禁日の松葉がに漁に同行させていただいたことがあるが、波の荒い冬の日本海へ、日付が6日になった瞬間、一斉に船が飛び出していく。
船が進む、のではなく「飛び出していく」のだ。全速力で。どの船も、良い漁場に最初に到着するために。

山陰地方の松葉がに、福井県の越前がに、石川県の加能がに、呼び名は違うがどれもズワイガニで、同じ11月6日に解禁となる。私は食べられることを思いそわそわするのだが、漁師の皆さんはそわそわどころじゃない、解禁直前は胸の高鳴りを抑えられないでいることだろう。
解禁日はどの地方でも即日に港へ戻り、初競りが行われる。それを私はニュースで見る。ああ、あの甘美で芳醇で濃厚でツヤツヤした半透明の身がまたこの口へ入るのか・・・。想像するだけでその夜の布団の中では、極楽を旅するような夢を見るのだ。

ところで、メスのズワイガニも地域により呼び名が違う。親がに、セイコガニ、セコガニ、コッペガニ、香箱がに。かつ、それぞれ地域によって名物料理的なものが存在する。例えば先述・浜坂では七釜温泉郷でセコガニの味噌煮が民宿各所で出されるし、金沢へ行くと、おでんとなっている。

 

 

年末まで、期間短し食せよおじさん。

 

金沢は人口比率で国内有数のおでん店が多い町だ。地元では居酒屋として利用することが多い。戦後しばらくして町におでん屋が誕生し、近年では「金沢おでん」として確立されているようだ。そして冬のイメージが強いおでんは、金沢へ行くと年中楽しめる。北陸新幹線の開業によりおでんを提供する店が増えているというから、オーソドックスから個性的な味まで、多様なおでんに出合えるだろう。

が、やはり行くのは冬だ。しかも、香箱がに漁が行われている期間だ。
11月6日にズワイガニ漁が解禁となったのち、雄がには3月20日まで漁が行われるが、メスは12月29日で終わる。2ヶ月もない。つまり金沢で香箱がにが食べられるのは年内いっぱいということになる。では、どのような料理で食べるか。そこで、金沢おでん。

香箱がにのおでんを「かに面」という。店によって価格はまちまちだが、基本的には時価。1パイ2,000円前後と考えておくといい。
身を丁寧に取りだし、内子と外子を混ぜて甲羅に入れ、その上に脚の身を並べるところもあれば、内子と外子と脚の身を混ぜで甲羅に詰めるところもある。一度蒸しているところもある。店によりいろいろだし、人により贔屓の「かに面」も異なる。
大人の拳よりも少し小さな香箱がにの甲羅に1パイ分のいろいろが詰まり、小皿にのってやってくる。箸でつまみつまみ、熱燗をいただく。
やがて甲羅の中が空になるが、そこで終わりではない。「お酒入れましょうか」の声とともに熱燗が注がれるのだ。まだかにのエキスも内子や外子や脚の身のかけらも残る甲羅。それらが熱々の酒と混ざり合いとびきりの甲羅酒となる。これはチビチビではなく、ぐいっと。

 

 

昭和生まれの名店は、今なお人を呼ぶ。

 

文豪・開高健はズワイガニを愛した人物でもある。彼はサントリーグルメ第1号に
『雄のカニは足を食べるが、雌の「ほうは甲羅の中身を食べる。それはさながら海の宝石箱である。丹念にほぐしていくと、赤くてモチモチしたのや、白くてベロベロしたのや、暗赤色の卵や、緑いろの“味噌”や、なおあれがあり、なおこれがある。』
とズワイガニについて書いている。とりわけ雌のかにが好きだったようだ。
氏が評したモチモチやベロベロやあれやこれやが、ひとつにまとまったもの。それが私は「かに面」だと思っている。すべて食べてなお、終わりに熱燗を注いで、ぐいっと胃の奥に入れてしまうのだ。宝石が身体に染み込んでしまうのだ。

金沢の繁華街・片町の香林坊交差点から数十秒歩いたところに、古参のおでん店のひとつ「菊一」がある。初めて暖簾をくぐったのは20年ほど前。当時は大将がいて、店が開いてすぐの時間帯なら、客は今ほど多くなかった。
カウンター越しにおでんのネタを物色する。加賀大根、赤巻、車麩、ばい貝、隣の鉄板の上でぶつぶついっているどて焼。それらは物色する程度で、最初から「かに面」をお願いする。つついて、つまんで、熱燗で飲み干して。そうしてやっと、おでんへと箸を移すのだ。
何度、冬のはじまりの儀式のように、この行程を繰り返してきたことだろう。

現在は大将の娘さんと、そのまた娘さんが店を切り盛りしている。メディアで全国に知られる存在となったようで、開店前から並ぶと聞く。若い人も多い。

そうか、地域の“うまい”はちゃんと世代を超えているのだな。

 

菊一
石川県金沢市片町2-1-23

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